「また遊女屋へ?」
ゾロが夕刻に屋敷を出る際、くいなが声をかけてきた。
ゾロの実母は、まだゾロが幼い頃に流行り病で死んだ。
ゾロや、まだ母親を恋しがる弟を育てたのは、乳母のくいなだった。
なかなか剛健な女で、母親のように育てるだけでなく、
乗馬から武術まで、屋敷にはそれ専任の師匠がいるにも関わらず、
ゾロに教え込んだのはくいなだった。
おかげでゾロは昔からくいなには頭が上がらない。
ゾロに一番厳しいのも、そして一番優しいのも、くいなだった。
そしてゾロのことを一番理解してくれるのも、くいなだった。
「お遊びはほどほどに」
「・・・・・遊びなんかじゃ、無ぇ」
「ではなおさら」
「・・・・・行って来る」
「お気をつけて」
最近では、ゾロはナミに次に来る時間を知らせるようにしている。
ナミはそれに合わせて、その時間の他の客を断るようになった。
番頭は、今まで一度も客を断ることのなかった従順なナミの変化に、
最初は不満をあらわにしていたが、
それがゾロが来るからだと知ると、容認した。
次期領主が通うとあらば、
それはナミ自身の格だけでなく、この店自体の格をも上げることにもなるからだ。
番頭は、ゾロを単なる馴染みの客だと思っている。
だが、ナミはもう、そうではないことを自分で認めていた。
自分は、ゾロに惚れている。
自分がこんな感情を持つ事は、許されない。
それでも、もう誤魔化すことはできなかった。
ただ、ゾロにそれを伝える気はなかった。
遊女は、男を通わせる手段として、
『私にはあなただけ』のような、思わせぶりな態度を取る。
客もそれが演技だと分かっていたとしても、
やはり通わずにはいられないのだ。
ナミは、ゾロに演技でもそうすることができなかった。
この感情がある以上、それはもう演技ではない。
そしてそれが演技でないのなら、ゾロにそんな態度を見せることはできない。
自分は遊女で、ゾロは次期領主。
それ以上にはなれない。
しかし、その関係でなら、ゾロと会っていられるのだ。
ナミにとって、それだけが、唯一の幸せだった。
それは久しく忘れていた、幸せという感情。
ただ、ゾロと逢えるという、それだけが。
翌朝店から戻ったゾロは、サンジの店の前を通りかかる。
サンジと一緒に店に行ったのは最初の1回だけだが、
あれ以来ゾロが通っていることを、サンジはもちろん知っている。
からかわれては堪らないと、ゾロは足早に通り過ぎようとした。
サンジの家は、御上にも献上している伝統ある和菓子屋だった。
その跡取り息子であり、その腕は今の主人にも劣らないと言われているサンジは、
女好きではあるものの、毎日の仕事もきちんとこなしていた。
つまり、朝も早い。
店先にちょうど出てきたサンジに見つかり、結局ゾロは店内に引きずり込まれた。
「お前、こんな朝早くに何してんだよ」
「別に・・・・」
「まさか、またあの店に行ったのか?」
「・・・・・」
律儀にも出してくれた茶をすすりながら、ゾロはぷいっと顔を背ける。
「お前が廓狂いになったって、噂になってんぞ」
「・・・そんなんじゃねぇ」
「そんなにあの子が気に入ったのか?」
「・・・・・・」
答えないゾロに、サンジははーーっと溜息をつく。
「お前がそこまで入れ込むなんて・・・・どんだけ良かったんだよ」
「・・・・・・・・・・あいつとは、してねぇ」
「・・・・・・は?」
「抱いてねぇ」
思いもかけないゾロの言葉に、サンジは危うく湯飲みを落としそうになった。
「・・・・・・・マジかよ、じゃお前何しに行ってんだ」
「ただ、話してる」
「・・・・・・本気になっちまったのか?」
「・・・・・・」
「何考えてんだよ、嫁にでもするってのか?」
「・・・・・・」
ゾロが答えることができないでいると、サンジは呆れたようにまた溜息をついた。
「ゾロ、お前にはさ、ビビちゃんっていう許婚がいるんだぞ?」
「・・・・分かってる」
「そりゃさ、領主なら妾の一人や二人いてもおかしくはねぇけど、
お前そんな器用な性格じゃねぇだろ?」
「・・・・・・」
「親父さんに何て言うつもりだよ」
「・・・・・・」
「・・・・全く・・・、あんな店に連れてくんじゃなかったなぁ」
「・・・・・・」
サンジはガシガシと頭をかきながら、苦笑する。
「まぁでも・・・、おれはお前の味方だからな。何かあったら言えよ。
一緒に殴られるくらいはしてやるさ、しょうがねぇから」
「・・・・・有難う」
幼い頃から共に育ってきた親友は、冗談めかしてゾロの頭をポンポンと叩きながら、そう言った。
ゾロには、生まれる前から決まっている、許婚がいる。
名は、ネフェルタリ・ビビ。
皇族の血筋の、いわゆるお嬢様だった。
領主の嫁にふさわしく、知性と品性を備え、そして美貌に恵まれた女である。
親の決めた相手とはいえ、ビビの方もまんざらではないようで、
ゾロとの結婚を待ち望んでいるという。
幼い頃、また成長してからも、ゾロは何度か顔を合わせたことはある。
確かに美しく立派な人間だった。
気立てもよく、いい娘だな、と思った。
自分の嫁になるということに、何の抵抗も感じなかった。
そのうち祝言を挙げるものだと、ゾロ自身も思っていたのだ。
だが、ゾロはナミと出会ってしまった。
女に惚れるということを、ゾロは知ってしまった。
これからどうするのか、ゾロはまだ何も考えていなかったし、分からなかった。
ビビのことをどうするのか。
婚約解消するにしても、父親にどう説明するのか。
ビビに、何と言って断ればいいのか。
ただ、ナミに逢いたい。
それだけだった。
2006/01/04 UP
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