「そそうの無いように」
呼び出しに来た番頭が、去り際にそうナミに声をかけた。
そんな事を言われたのは、初めて客を取ったとき以来だった。
どんな注意をされようが、ナミにとってはどの客でも同じだった。
丁寧に仕事をし、客が満足して帰れば、それで仕事は完了だ。
馴染みになって金を落としてくれさえすれば、どんな客でも文句は無かった。
感じるものは、何もない。
ただ淡々と、時間が過ぎるのを待てばいい。
演じることなど、ナミにとっては最早何の問題もないことだった。
遊女のほとんどは、借金を背負っている。
それが遊女になった原因である者もいるし、そうでない者もいる。
だがどちらにしても、『遊女』であることは金がかかるのだ。
基本的に、食費から衣装代まで、遊女は全てが自腹である。
金持ちが馴染みになり、その男が贈り物として貢いでくれれば言うことなしだが、
そんな金持ちの客ばかりではない。
結局、借金を返すために働く遊女は、
遊女であるがために、日々店からの借金が増えていく。
その借金返済のために遊女はみな、できるだけ多くの客を一晩でこなしたい。
そのためには、相手ごとにいちいち自分が満足していては、体が持たない。
またそれは、『遊女』にとっては恥ずべきことであった。
客のみをいかに満足させるか。
演技力も、遊女のひとつの大事な素質であった。
『あの日』から、ナミの心は少しずつ少しずつ、死んでいった。
しかしそれでも、ナミは遊女であり続けなければならない。
何をされても、何をしても、何も感じない。
ただ『仕事』をしているだけだ。
そうすることでしか、ナミは此処で生きていけなかった。
今日は、呉服屋の主人が来ることになっていたはずだった。
主人は少し前から馴染みの客で、
金遣いも悪くないので、店側としても有難い客だった。
だが番頭から、呉服屋の旦那は断ったと言われ、
怪訝に思いながらも、ナミは部屋に向かう。
初会の客ではあるが、『領主の息子』らしい。
なるほど、店が気を遣うのも無理は無い。
次期領主に気に入られれば、この店の未来も安泰というわけだろう。
逆にもし彼を怒らせれば、
公序良俗に反するという建前で、いつ財産没収のうえ店を潰されてもおかしくはない。
どちらにしろ、ナミにはどうでもいい話だった。
自分はただ仕事をするだけ。
部屋へ向かいながら、どんな男だろうとふと考えた。
自分とはあまりにかけ離れた身分の男。
この仕事をしていれば、様々な身分の男に出会う。
遊女屋で、しかもナミを買えるようなまとまった金を持っているので、
ナミの客は皆それぞれ、何かしらの地位に就いているものが多かった。
ナミの美貌にあてられた若い2代目商人などは、
ナミを見るなり、早々に事に及ぼうとする無粋な者が多い上、すぐにナミを身請けしたがった。
実際は2代目ごときに簡単に払える金額ではないのだが、
そう言えば遊女が喜ぶと、本気で思っているのだ。
金と自由をちらつかせれば、この遊女を自分の好きにできると。
領主の息子なども、似たようなものだろう、とナミは考えた。
所詮は親の金で、遊廓遊びをするような男だ。
だが、満足させてやり馴染みになってくれれば、
今後かなりの金を落としてくれるのは間違いない。
挨拶をして中に入ると、若い男が座っていた。
(これが、次期領主・・・・)
目の前の男は、ナミをじっと見つめてきた。
生まれ持った地位に甘えて、親の金で遊び歩いている馬鹿息子なのかと勝手に想像していたが、
この男は、そうは見えなかった。
年はおそらく、自分と変わらないくらいだろう。
細くはあるが、日々鍛錬しているのが見た目にもよく分かった。
くっきりとした二重で、鋭く強い眼差しは、意思の強さと、そしてその心の強さを感じさせた。
ただ座っているだけでも、その育ちのよさがにじみ出ている。
自分とは違う世界の人間だと、はっきり分かった。
部屋に入り、ナミは男の傍に座った。
「・・・・・・あぁ、お前も飲むか?」
男は手に持っていた盃を軽く掲げる。
「いえ、結構です。どうぞ」
先を促すと、男は遠慮がちながらも食事を再開した。
「お名前は?」
「・・ロロノア・ゾロ」
「ロロノア様、こういった店は何度か?」
お決まりの会話をしようとすると、ゾロは嫌そうな顔でナミに言った。
「その『ロロノア様』lっての、やめてくれ。背中のあたりが痒くなる」
「・・・・では何と・・・?」
「ゾロでいい」
「・・・・ゾロ、様」
「だから、様はやめてくれよ」
本当に痒そうな顔をしたので、ナミは思わずクスリと笑う。
仕事中に演技以外で笑みが出ることなど、今まで一度もなかったのに。
「ガキの頃に一度来たきりだ。正直よく分からねぇ」
「では、どうして今日はまた?」
「友人に無理矢理な、そいつはここの馴染みらしい。サンジってやつだが、知ってるか?」
「あぁ、サンジさん・・・杏の馴染みの方ですね」
「あー、杏とか言ってたなさっき」
そうこう言いながら、ゾロは出された料理をぺろりとたいらげていた。
さすがに食べ方は上品なものだったが、
かなりの量を頼んでいたようなのに、キレイさっぱり無くなっている。
「なかなか美味いな、ここの料理」
まるでここが料亭かのように、満足気にそう言ったゾロに、ナミはまた笑う。
この男は、何かが違う。
今まで出会ってきた金持ちの男たちとは、何かが違う。
だがそうは思っていても、ナミがすることは変わらない。
この客を満足させて、金を落とさせる。
それだけだ。
ゾロが盃を空けるのを見て、ナミは立ち上がり打掛の紐を解く。
「・・・・あぁ、やめろ」
「え?」
ゾロは片手をあげて、ナミを制した。
紐を持ったまま思わず固まってしまったナミを、ゾロは座るよう促した。
言われるがままナミは再び腰を下ろす。
「いいんだ、そういうのは」
「・・・・・?」
「泊まりってことで金を払ってる。でも何もしなくていい」
「・・・そういうわけには・・・・・・」
「いいんだ」
遊女屋に来ておきながら、遊女を抱かないという。
本当に、この男は何なのか。
ナミはさっぱり分からなかったが、
楽をして一晩分の金が稼げるのなら、それはそれで有難いものがあった。
だが、一晩何をしろと言うのだろうか。
「話でも、しようか」
「・・・・話?」
「あぁ、酒でも飲みながら、な?」
ゾロはそう言って笑い、ナミに盃を差し出す。
「それとも、下戸か?」
「いえ・・・・」
「じゃあ飲もうぜ。眠くなったら寝ればいい。でも、あんたの仕事はしなくていいんだ」
「・・・・・・・」
結局その夜、2人は抱き合うこともなく、ただ酒を酌み交わし、
他愛の無い話をして時を過ごした。
さすがに夜更けにはゾロも眠くなったので、
2人で並んで布団に入った。
男に何もされず、ただ並んで眠るなど、ナミからすれば初めてのことだった。
ナミのことが気に入らなかった、というわけではないようだが、結局ゾロは指一本すら触れてこなかった。
もしや男色なのか、とも思ったが、さすがに聞けなかった。
泊まりの客には皆そうするように、翌朝ナミはゾロを店の門の手前まで送り出した。
「お近いうちに、また」
などとこれまた決まり文句を言う。
これまで数え切れないほど言ってきた、形だけの言葉。
それでもこの日、ナミはこの言葉にうっすらと自分の『意思』を見た。
だがすぐに気のせいだと頭からそれを振り払う。
ナミの言葉にゾロは振り返り、まっすぐにその目を見つめる。
「・・・楽しかったよ、ナミ」
優しく笑ってそう言ったゾロに、ナミは胸がうずくのを感じた。
その瞬間、ナミの頭の中で警報が鳴る。
こんな感情は、持ってはいけない。
動揺を微塵も見せず、ナミは演技の微笑みでゾロを送った。
ゾロが店から出ると、一足先に出てきていたらしいサンジが駆け寄ってきた。
「よぉゾロ、どうだったよこの店の一番子は?」
「・・・・よかったよ」
がばりと肩に抱きついてくるサンジをうっとおしく払いのけながら、ゾロはポツリと言った。
「いいもんだろーー遊廓遊びってのも?お前さ、この際馴染みになったら?」
「・・・・・そうだな」
抱くどころか手さえ握っていないなどと、サンジには決して言えないな、とゾロはぼんやりと思った。
『これだから遊び慣れてないヤツは!』とからかわれるのがオチだ。
親友といえども、言えなかった。
目が合ったあの瞬間、惚れてしまったなどと。
2006/01/02 UP
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