偶。
「……くそ」
足の竦むような高さの崖から、ゾロは無残に崩れ落ちた吊橋を見下ろした。
随分昔にかけられたらしいそれは既に朽ちかけていたようで、
かろうじて残っていた杭に触れると、崖下にぶら下がっていた吊橋の残骸の重みに引っぱられ、
あっという間に根っこごと落下しはるか下の濁流に飲み込まれていった。
対崖にも同じように切れた吊橋がぶら下がっているが、それも自重で落ちてしまうのは時間の問題のようだった。
数日前からここら一帯は大嵐で、ゾロもナミを抱いて岩の隙間で丸くなってやりすごしていたのだが、
その大風のせいで落ちた吊橋が、ここから先にまっすぐ進む最短の道であった。
もちろん、ゾロが本来の姿になればこの程度の崖間など軽々と飛び越えることができる。
だが今のゾロにはそれはできなかった。
自分の村の未来を守るため巫女として己を捧げたナミの命を救うことに、
妖怪としての己の力のほとんどを注ぎ込んでしまったのだ。
山の神でもあったゾロの力の全てがそれで失われることはなかったが、
最早以前のような不老長寿ではなく、しかもいまだにその力は回復しているとは言えなかった。
今のゾロは、人型でナミを抱え山を歩くので精一杯だった
本来の姿――白虎の姿に戻ることが不可能なわけではない。
だが人から白虎の姿になること、またその逆も、かなりの力を使うことだった。
先日の嵐からナミを守るため、ゾロは白虎の姿でひたすらに彼女を温めていた。
腹に子を抱え体調も芳しくないナミを抱き、白虎の体毛で暖を取ることはできても、
人型に戻るまでの数日を山に篭って過ごすのは良策とは言えなかった。
今のナミの状態は一刻も早く医者に見せなければならなかったが、人や村を見つけても虎の姿では近づくことができない。
だから嵐が過ぎるとゾロは人型になったのだ。
想定外だったのは、この先にあるはずの村へと続く吊橋が落ちてしまっていることだった。
人型でここを超えることはできない。
普段ならばどうということはないのだが、現段階の回復具合を考えると、
今ここで白虎に戻ってしまえば次に人型になる力はしばらく戻らないだろう。
妖怪の姿で村に入るわけにはいかない。
ゾロは茶色の濁流を見下ろしながら舌打ちをし、向きを変えて岩の傍の乾いた草の上に寝かせておいたナミの元へと戻った。
今は暖かな陽射しが注いでいるとはいえ多少雨風に当たってしまったナミは、
蒼白な顔で浅く早い呼吸を繰り返し、ぎゅっと目を瞑っている。
ゾロはその傍にしゃがみこみ、ナミの頬に優しく触れる。
「ナミ」
「………ゾ、ロ?」
呼びかけに応え、ナミはうっすらと目を開けて微笑んだ。
「悪い、村までまだかかりそうだ」
「……私は、大丈夫よ」
「ムリさせてごめんな」
「平気…」
ナミはそう呟いて、また目を閉じた。
言葉とは裏腹に辛そうなその表情にゾロは胸を痛める。
ここからは渡れなくとも迂回すれば別の橋があるだろうし、距離の狭まったところもあるかもしれない。
人型とはいえ人間の運動能力よりは遥かに秀でているから、対崖が近ければこのままでもナミを抱えて飛ぶことはできる。
だが結局はナミを背負ってまたしばらく歩かなければならないし、足場の悪い道で決して体に良くない振動を伝えてしまうことになる。
ゾロはもう一度ナミを見下ろして、額に浮かんだ汗を拭ってやる。
自分と出会わなければ、今こうしてナミが苦しむことはなかったのに。
そんな思いがゾロの胸をかすめる。
あの日あの森で、ナミに出会わなければ。
自分がナミに、こんな感情を抱かなければ。
そんな後悔と罪悪感と、それ以上の愛しさから、ゾロはナミの額に口付けを落とす。
唇が離れると同時に、ゾロは人の気配に気付き素早く体を起こした。
ナミを庇うように移動し、気配の先を見る。
「あんた、何してんだ?」
「………」
黄色の髪をした男が、呑気にそう声をかけてきた。
見慣れぬ着物を纏い大きな木の箱を背負って、巻いた煙草を咥えている。
「あぁ、吊橋が落ちて難儀してんのか」
男は崖の方に顔を向け、得心したのか一人頷いた。
ゾロは男の素性を伺うように鋭い目を向けながら、ゆっくりと立ち上がる。
「旅の人かい? うぉー!そっちはえらい別嬪さんだな!! …具合悪そうだが?」
「……村を、探している。 腹に子がいるんだ、体調も良くない」
「そりゃ大変だな。 熱はあるか?」
「あぁ……前の嵐で少し濡れちまって」
「あー、あれはひどかったからな」
男はそう言って背中の箱を下ろすと、たくさんの小さな引き出しの中から白紙にくるんだ粉薬を取り出した。
それを開きながらナミの傍に腰を下ろし、手を伸ばそうとする。
ゾロは思わずその腕を掴んで止めようとするが、目が合った男が肩をすくめると渋々と手を引っ込めた。
男は笑って、ナミの上体を持ち上げて膝をついた自分の足の上に乗せて頭を支える。
「あんた、医者か」
「いや、医者じゃないが、それなりの常備はしてるからな」
男は紙の端をナミの口元に当て、軽く開かせた口の中にそれをさらさらと落とす。
それから腰に下げていた水筒から同じようにして水を飲ませた。
喉が上下するのを確認して、男はナミを再び草の上に寝かせた。
「――首の傷は? まだ新しいようだが」
「それはもう塞がってる」
「みたいだな……ま、旅するんなら薬くらい持っとけよ。 子もいるんなら早く医者にも見せねぇと」
「……あぁ」
人間の薬などゾロにとっては不必要なものだが、ナミはそうはいかない。
体力を回復させるだけの力をナミに与えることもできない今の自分の無力さに、ゾロは思わず目を伏せた。
「さて…橋が無いとなるとどうすっかな…。あんたらもこの橋渡るつもりだったんだろ」
「…対崖に村がある。 そこが一番近いんだ」
「あっちに? 何で分かるんだ?」
「匂いで分かる」
「…ふーん」
断言するゾロに、男は肩をすくめた。
ちらりとナミへと目をやってから、自分が歩いてきた方角をじっと見つめる。
「……おれが通ってきた道で、確かここよりも大分崖の距離が狭いとこがあった」
「…どのくらい行った所だ?」
「半刻かそこらじゃねぇかな、せいぜい」
軽い調子で言いながら、男は下ろしていた箱を背負いなおした。
ゾロは再びナミの傍に腰を下ろし、幾分ラクになったような表情を確認して軽く息を吐く。
それから男に目を戻して立ち上がる。
男は煙草の煙を吐き出して、ニッと笑った。
「おれが先に行って、適当な木ぃ倒して橋作っといてやるよ」
「……作る?」
「あんたらは嫁さんの調子見て、まぁのんびり来ればいい」
「作るって、どうやって」
見たところ斧の類など何も持っていない男に、ゾロは思わず尋ねた。
男は笑いながら片足を上げてブラブラと振ってみせる。
「デカいの蹴り倒しゃ、まぁ丸太1本でも橋代わりにゃなるだろ」
「蹴り倒すって、あんたがか?」
「あんたも大分弱ってるみてぇだが、嫁さん抱えて丸太の橋くらいは渡れるだろ?」
含みを持たせた笑みを見せる男を、ゾロはじっと見つめた。
「……本当に人間か、あんたは」
「ははっ、それはこっちの台詞だろ?」
「………」
男はケラケラと笑う。
ゾロの目をまっすぐに見返して、咥えていた煙草を手に持った。
「おれは人間だが、まぁ商売柄そういうのは分かるんだ」
「………」
「じゃあな、おれは行くぜ。 また縁があったら会おうや」
そう言って男は背を向けて、スタスタと歩き出す。
「あんた、名前は!」
「サンジ」
男の背中にゾロが叫ぶと、男は振り返らずに返事をした。
「――サンジ、恩に着る」
「蟲の相談ならいつでも呼んでくれ」
サンジは煙草を持った手をヒラヒラと振りながら、止まることなく進みそのまま姿を消した。
ゾロはしばらく男の消えた方向を見つめていたが、やがてナミの元へと戻った。
「ナミ」
「…ゾロ、さっきのは、お医者さま…?」
先程よりははっきりとした声で、目を開けたナミは呟いた。
「いや…蟲師らしいな」
「ふぅん……ちゃんとお礼を言えなかったわ…」
「ナミ、今日中には村に着けるぞ」
「ん…でも無理しないでね…」
「あぁ、もう少しここで休んで行こう。 寝てていいぞ」
「うん……」
そう答えるとナミは素直に目を閉じ、やがて寝息を立て始めた。
苦しげな雰囲気は感じられず、ゾロは緩く微笑んでナミの髪を撫でてやる。
そうしながら、再びサンジが消えた方へと目をやった。
なかなか興味深い人間だった。
またどこかで会ってみたいものだ。
ぼんやりとそう考えながら、体力回復のためゾロもナミの隣で横になった。
空を見上げると、太陽が真上まで来ていた。
眩しさに目を細め、体を横にして隣で眠るナミを抱き締めた。
先程までとは打って変わって、未来への不安など何も感じず不思議と落ち着いた気持ちになっていた。
村に着いたらまず医者に見せて、そこで無事に子供を生ませてもらおう。
おれとナミと、そしてまだ見ぬ我が子と。
新しい生活を始めるのだ。
おれたちの素性など誰も知らぬ、新しい場所で。
そうして落ち着いたら、いつかあの蟲師に礼を言いに行こう――3人で。
2007/12/06 UP
『妖怪ゾロと巫女ナミの続き』
前作は『種。』と『継。』です。
妊婦に何飲ませたんだろうねサンジくん(笑?)。
ギンコじゃないよ、サンジだよ、一応。
環境がさっぱり分からない。
そして皆のキャラも分からない…。あわわ。
海里さん、これでお許しを…。
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