確。
仕事帰りのナミは、いつも行く近所の小さなスーパーで買い物カゴを片手にこっそりと欠伸をした。
疲れて料理する気など起きないが、かといってインスタントラーメンや惣菜で簡単に済ましてしまうのは味気ない。
一度それを許してしまうと、一人身の自分ではずるずると堕落した食生活を送ってしまいそうだった。
だからナミは仕事で疲れた夜も自炊するし、買出しをすると決めた日ならば必ずスーパーに行く。
この日も朝チラシでチェックした商品や、安売りになっている食材を吟味しながらゆっくりと店内を歩いていた。
一時期両手が荒れに荒れていたので、そのときはさすがに出来るだけ水を使わないようにしたから、随分と手を抜いた食事になってしまっていた。
だが良い病院にかかったおかげで、今はすっかり治っている。
もう病院の薬を塗らなくても、普段のお手入れ程度で間に合っている。
手荒れが治るのは、女としては喜ばしいかぎりだ。
だがナミはそれが少し寂しかった。
治ってしまえば、もう病院に行かなくともよくなってしまうのだ。
それはつまり、あの医者に会えなくなるということ。
常連患者が溢れるロロノア皮膚科は、医師としての腕はもちろん、医師本人の人気も随分と高い。
人目を引く容姿に、堅苦しくない態度。
医師としては軽すぎるのかもしれないが、この病院に来る人間はこぞってファンになって帰っていくのだ。
その医師の名前はロロノア・ゾロ。
ご多分に洩れず、ナミも(自分では認めたくないが)ロロノア・ゾロのファンになっていた。
野菜売り場で立ち止まり、ナミはぼんやり自分の手を見下ろした。
病院に通うのをやめてからもう三か月になる。
症状が良くなった、仕事が忙しくなった、ちょうど薬が無くなって塗らなくなっても悪化しなかった。
そんな理由で通院をやめてしまったのだが、ナミは自分の中できっかけを探していた。
また悪化でもすれは通えるのだが、幸か不幸かあれ以来手の状態は絶好調だ。
診察室の中以外では、ゾロに会うことは出来ない。
通院期間中に一度、このスーパーの中で会ったことはあるが、その一度きりだった。
他の患者からの情報で独身だということは知ったが、それ以上のことは分からない。
看護師のいる診察室の中で携帯番号を聞きだす勇気もさすがに無く、通院の無い今、ナミはゾロとの接点を完全に失っていた。
「……今度ニキビでも出来たら、すぐ行こうかな」
小さく独り言を呟いて、ナミはまた歩き出した。
これがどういう類の感情なのか、自分でもまだ確信の持てる答えは無い。
だが会いたいと思う。
ならば会わなければ、何も始まらないではないか。
だがだからと言ってそのために不健康な生活をするつもりはないので、ナミは気持ちを切り替えて夕食の材料をそろえるべく買い物を続けた。
野菜売り場でいくつかカゴに入れたあと、そのまま流れで魚のコーナーを覗く。
だがその先で一瞬視界に入ったものに気付いて、慌ててそちらに目を向けた。
肉売り場に、ロロノア・ゾロがいた。
黒いTシャツにジーンズという、オフの恰好だ。
今日は休診日ではないはずだから、時間的にもおそらくは診察終了後なのだろう。
これはチャンスだと神に感謝し、女として持てる行動力をフルに発揮してナミはゾロのいる方へと足を早めた。
だが勢いよく数歩進んだところで、ぴたりと足を止める。
ゾロの影に隠れて気付かなかったが、隣に誰かが立っていたのだ。
短い黒髪の、すらりとして姿勢の良い女性。
ゾロと同じようなTシャツにジーンズという格好で、親しげにすぐ隣に立っている。
美人と呼んで間違いはない容姿で、言葉を交わし時折笑顔を見せながらゾロの持つカゴに肉のパックをいくつか放り込んでいる。
ナミは無意識に一歩引いた。
指輪もしていないし結婚もしていない。
だがそれは、彼女がいないというわけではないのだ。
「ロロノア先生」
その声に、ナミは思わず自分の口に手を当てる。
無意識の声が漏れたのかと思ったが、声の主はナミとは反対側からゾロたちに向かっていた別の人物だった。
話好きそうな年配の女性が、にこにこと笑いながら小走りで二人の元へと近づいていく。
ナミも待合室で見た事のある、常連の患者だった。
「先生もお買い物?」
「あぁ、ロズさんは調子どうだ? 薬切らしてねぇか?」
「先生のおかげですごく良いわよ! 今日はくいなさんと一緒なのねぇ。お夕食?」
「えぇ」
くいなと呼ばれた女性も、知り合いらしいその患者ににっこり微笑んだ。
「作るのはゾロですけどね!」
「あらあら」
「だってゾロが作ったほうが美味しいんですよー?」
「作ろうともしねぇくせによ」
「相変わらず仲いいのねぇ二人とも」
三人の笑い声を聞きながら、ナミはどくどくと嫌な早さで心臓が脈打つのを感じていた。
さっさとこの場を立ち去りたいのに、足が動こうとしない。
まだ買い物は半分も済んでいないけど、全部元の棚に戻して店から逃げ出したかった。
これ以上彼らの話をこの耳に入れて、あの二人が恋人同士なのだという確証を得ることは避けたかった。
最初っから、指輪でもしていてくれればよかったのに。
半ば八つ当たりのような独り言を心の中に収めて、ナミは帰ろうと決意を固めた。
だが背中を向ける直前に、ゾロと目が合ってしまった。
その状態で急に立ち去ることはあまりに不自然で、しかもゾロがこちらに笑いかけてきたものだから、結局ナミはその場にとどまることになった。
カゴをくいなに預けて、以前このスーパーで会ったときと同じようにゾロの方から近づいてくる。
その背後からくいながこちらを不思議そうに見ているのに気付いたナミは、居心地が悪くてゾロの体に隠れるようにこっそりと立ち位置をズラした。
「久しぶりだな。病院来てねぇけど、調子いいのか?」
すぐ傍まで来たゾロは、そう言って笑う。
その笑顔を見ると、先程までの動揺とか羨望とか嫉妬とか居心地の悪さとか、そういう類いのものを一気に全部忘れてしまって、ただただ嬉しかった。
ナミはくいなの方へ目を向けないようにして、顔が火照っているのを自覚しながら「はい」と返事をした。
「ん、キレイになってんな」
これもまた以前と同じようにゾロは唐突にナミの手を取ってじっくり見つめ、満足げに笑って言った。
触れている部分が熱い。
ナミは必死に声が裏返らないようにして「ありがとうございます」と返す。
「油断するとまた悪化するからな。普段の手入れきちんとしろよ。まぁ大丈夫みてぇだけど」
「は、はい」
「悪化する前に病院来たら、あらかじめ薬渡しとくことも出来るから」
「あ、りがとうございます……」
話しながらも、ゾロはいまだにナミの手を握っている。
この人はきっと職業柄こういう状況は気にならないのだろう、とナミはゾロの手のぬくもりを掌全部で感じながら思った。
だがナミは気にする。
診察中ならまだしも、今はプライベートでしかも周りの目もある普通の店の中なのだ。
手を振り払うことも出来ず、元より振り払うつもりもなく、ナミはただ顔を徐々に赤くしながらゾロは手を離すのをじっと待っていた。
「ゾローー、私先に帰るよ。ロズさんがおかず分けてくれるってさ」
その声に、反射的にナミはパッとゾロの手を振り払った。
くいなは笑いながら、二人の方へと近づいてくる。
「っ先生ホラ、彼女が呼んでる」
「彼女?」
「あ、ねぇ」
「失礼します!」
くいなが何か言いそうになっていたが、ナミはぺこりと頭を下げるとゾロに背を向け、そのまま足早に去った。
カゴの中の野菜を途中で素早く元の場所に戻して、結局何も買わずにスーパーを飛び出した。
ゾロに握られた手が、まだ熱い。
あぁこれはやっぱり。
ナミは家までの道のりを早足で進みながら、その手で自分の頬に触れた。
手も熱いが、頬も負けないくらいに熱い。
彼女がいると判明したのに、それなのに自覚して確信を持ってしまった。
「…あーーーー、ヤバイ。ヤバイってコレ」
報われないと分かっているのに、胸の鼓動が止まらない。
両手で頬を押さえながら、来週の休みに予約を入れようとナミは決意した。
略奪愛なんてキャラじゃないけど、とりあえず医者と患者の関係から再スタートだ。
「……ゾロ? 今の患者さん?」
「あぁ……」
「……あー!! あれね、あんたの――」
「うるせぇ!」
「彼女、とか聞こえたけど…まさか誤解されちゃったんじゃないでしょうね」
「………」
「バーカ、何ではっきり姉貴だって言わないのよ」
「……言う前に逃げられた」
「だからあんた結婚どころか彼女もできないのよ、トロいんだから。惚れた女くらいさっさと捕まえなさいよまったく」
「あーーーもう、うるせぇな!」
「本当に仲の良い姉弟ねぇ」
「聞いてよロズさーん、こいつ本当恋愛面ダメダメで」
「あら、私いいお嬢さん知ってますよ? 紹介しましょうか?」
「ううん、目当ての子はいるんですよー、でも全然自分から行かないから」
「ベラベラ喋んなよてめぇ!」
「そういう生意気なクチは、デートの約束でも出来てから利きなさい。ねぇロズさん?」
「あーーもうおれは帰るからな!!」
「ヘタレ」
「うるせぇ今に見てろ!」
2010/11/28 UP
「『塗。』の続き」
皮膚科医ゾロと、患者ナミ。
い、医療モノはダメなんだって…書けないって……。
まぁこれ全く医療話とは程遠い話ですけど(笑)。
超難産。書き始めてどれくらい経ったかな…というくらいの時間眠っていた(笑)SSです。
ようやくアップ!
モコさん、これで勘弁!
まだまだデキる前だけど、ゾロは狙ってるよ!(笑)
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