廻。 ―1―
「じゃあ今ゾロ王子はいないの?」
「うん、公務でお隣の国に行ってる…」
「なるほどねー、だからそんな拗ねてんだ」
「べ、別に拗ねてない!」
バルコニーから海に身を乗り出し、ナミは顔を赤くして抗議した。
海の中から顔を覗かせているのは、ナミの姉のノジコだ。
彼女の下半身は美しく輝くウロコで覆われている。
人が踏み入ることのできぬ深い海底を住処とし、広い海を優雅に泳ぐ――ノジコは人魚だった。
そして今はすらりと伸びたしなやかな人間の足を持つナミも、少し前まではノジコと同じ美しい人魚であった。
人間の王子に恋をして、己の命を賭けてまでその傍に居たいと願った人魚は、
人間となりただただその男を愛して、そしてそれ以上に愛された。
無事に結ばれた2人は今は幸せな生活を送っている。
姉であるノジコは、時折こうしてナミの様子を見に城の傍までやってくる。
本来人魚は人間との関わりを嫌い、こうして人間の生活範囲までやってくることは無い。
だがナミに劣らず好奇心の旺盛なノジコは、ナミに逢いに来るという理由で平気な顔でやってくる。
人間にこの姿を見られたらどうなるか分からない。
人魚の肉を食せば不死の命が得られるという伝説すら人間の世界には存在するのだ。
だがその心配を他所に、ノジコは相変わらずナミのところまでやってきてくれる。
ナミは心配する反面、やはりそれを嬉しいと思っていた。
人間になってしまった以上、もう人魚の世界に戻ることはできない。
人魚の住む深い海の底へは人間では潜ることはできないし、人間は水中では呼吸もできないのだ。
共に過ごした仲間にもう永遠に会う事はできないという寂しさを、
こうしてノジコが来てくれることでナミは忘れることができていた。
「ナミ、あんたそろそろ中に入りなさい」
「え?」
突然ノジコに言われ、ナミはきょとんとする。
「こんな天気なんだから。 人魚の頃と違ってあんたは乾いた陸地にいるのよ」
そう言われて、ナミは空を見上げた。
夏の太陽にギラギラと容赦無く照らされ、ナミは今更ながらその暑さを実感した。
昨夜は嵐だったのだが、今日はうって変わって晴天である。
人魚であったころは人間の服装と違ってほぼ裸だったし、当然海の中だったので『暑さ』などとは無縁であった。
だが陸では人は服を着る。
しかもナミは、今では王子の妻なのだ。
どれほど暑い夏とはいえ、しっかりとしたドレスを纏わなくてはならない。
ナミは手をかざして気休め程度ながらも太陽の光を遮った。
先程から頬を汗の筋が何本も伝っている。
「顔色も悪いし、中に入って休んでなさい。 私はもう行くから」
「うん…分かった…」
ノジコが身を翻し海中に消えるのを見送ってから、ナミは言われた通り中に入るため顔を上げた。
その瞬間、眩暈を覚えた。
いけないと思ったときにはもう遅く、ナミの状態はグラグラと揺れ、
ノジコと会話するためにバルコニーから身を乗り出していたナミはあっという間に海に落ちた。
長いドレスが足にからみ、上手く泳げない。
そもそも人間の足で泳ぐ事自体にまだ慣れていないのだ。
海中でもがきながら、ナミは懸命に手足を動かす。
昨日の嵐の影響が残る海の波は高く、ナミはどんどんと流された。
すでにどちらが海面でどちらが海底なのか、それすらナミには分からなくなっていた。
人魚の中でも泳ぎの速かったノジコは、既にこのあたりからは消えている。
ナミが暴れれば暴れるほどドレスの布はその手足にまとわりつき自由を奪っていく。
ガボっと大きな空気を吐いて、目を閉じたナミは意識が遠のきそうになるのを感じた。
そのとき、ふとまわりの気配に気付いた。
目を開けると、鮮やかな色を持つ小さな魚たちに囲まれていた。
(…あなたたち……)
脱力したナミを囲むようにその魚たちは泳いでいる。
(…覚えてて、くれたのね…)
人魚だったころ、共に泳ぎ戯れた魚たち。
ナミは彼らに導かれるように、薄らぐ意識の中で必死に足を動かした。
何とか海面に顔を出すことができ、その目の前に浮かんでいた木の端にしがみついた。
そこでナミの意識は途切れた。
目が覚めたとき、見覚えのない木のベッドに泣かされていた。
ナミはゆっくりと体を起こし、周りを見渡す。
小さな部屋で、窓からは木々が立ち並んでいるのが見えた。
ドレスは脱がされ、シンプルな綿のワンピースを着せられていた。
立ち上がり窓から覗くと、どうやらこの家は森の真ん中に立っているらしく、見える範囲は木に囲まれていた。
少し顔を覗かせると、ナミのドレスが木の間に張ったロープにつるされてバタバタと揺れていた。
海に落ちたのにどうして森の中に?とナミが考えていると、唐突に部屋の扉が開いた。
振り返ると、入ってきた女性がナミと目が合って「きゃ!」と叫んだ。
「ご、ごめんなさい! まだ寝てると思って!」
「いえ……、私、一体…」
女性は顔を赤くして、持っていたトレイをベッド脇のテーブルに置いた。
まだ少女と言ってもいい、ナミよりも幾分か幼いその人は、綺麗な青い髪を揺らしてナミの前に立った。
「私、ビビって言います。 貴女が砂浜に倒れてたのを見つけたの」
「そっか…助けてくれてありがとうございました」
ビビは笑ってナミをベッドに座るよう促し、トレイに置いてあったマグカップを渡した。
ちょうどよく温められたミルクの入ったカップを、ナミはまた礼を言って両手で包むように受け取る。
ビビの優しい笑顔に、思わずナミも微笑みを返した。
「じゃあ、ここは貴女の家?」
「いいえ、私たちがお世話になってる方のお宅です。 私の家はちょっとお客様を寝かせられるベッドが無くて」
「その人は?」
「今は食料調達に―」
ビビがにっこりと笑って答えると同時に、大きな音を立てて扉が再び開いた。
「起きたかーい!?」
豪快に扉を開けて現れた女性は、頬を赤く染め酒瓶を片手に持ち、おぼつかない足取りで中に入ってきた。
フラフラとナミに近寄り、その顔を覗き込む。
「ん、大丈夫そうらね」
「あ、あの、助けてくださってありがとうございました!」
「いいんらよ、おめぇが人間拾ってきたときはビックリしたけろねぇ」
女性はビビに向かってそう言いながら、グビリと酒瓶に口をつける。
ナミは呆気に取られていると、ビビが近づいてナミに笑いかける。
「この方はココロさん、この家のご主人です」
「あ、ナミです」
ナミはまだ自分の名を言っていないことに気付いて、慌てて頭を下げた。
顔を上げると、目の前にココロの顔があって思わず背を反らした。
ココロはナミの顔をじっと見つめ、それから離れて酒をまたあおった。
「おめぇ、アタシと同じ匂いがするねぇ」
「え? えと、確かにお酒は好きですけど…」
「そうじゃらいよ! んががが!!!」
ナミの答えを聞いてココロは声を上げて笑い、現れたときと同じようにフラフラと部屋から出て行った。
ミルクを飲み終えたナミがビビと共に部屋から出ると、キッチンにはやはり酒を煽っていたココロがいた。
「ココロさん、それじゃあ私今日は帰ります。 また明日来ますから」
後半の言葉はナミに向けられ、ナミはペコリと頭を下げた。
ココロはきゅぽんと酒瓶から口を離し、ビビに向かってそれを振った。
「ビビ! 裏に魚置いてるから、持って帰ってコーザに食わせてやんら!」
「わぁ! ありがとうココロさん!」
ビビはぱっと顔を明るくして、扉からパタパタと出て行った。
ナミはその姿を見送って、それからココロに視線を戻す。
「あの……」
「何らい?」
「ここはどこなんでしょう? 大分流されてしまったと思うんですけど」
「アラバスタの西の端らよ」
「アラバスタ……」
アラバスタといえば、隣国である。
思ったよりも近くなうえ友好国だったことに、ナミはひとまず安堵した。
ココロはまたナミをじっと見つめ、ナミがどうしたらいいか迷っていると『まぁ座んな』と声をかけられた。
素直にココロの正面に座ると新しい酒瓶を渡され、少し迷ってからココロと同じように口をつけて飲んだ。
人間になってから酒には強いと判明し、よくゾロと一緒に酒を飲んでいた。
だがさすがにこんな豪快な飲み方はしたことはなくナミは少し戸惑っていたが、意外と飲みやすかった。
小さなグラスでチビチビ飲むより合うかも、とすら考えてしまった。
「なぁ、おめぇ……」
「はい」
ココロはじっとナミを見つめ、それからニヤリと笑った。
「人魚らね?」
2007/07/31 UP
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