「どういうことだよ」

男鹿は今自分が耳にしたことが信じられず、反射的にそんな言葉を口にした。

目の前には、いつものようにベル坊を抱っこしたヒルダがいる。
変わらぬ光景なのに、ヒルダが発した言葉はそんな男鹿の日常を崩壊させるものだった。


事の始まりは二日前だった。
唐突にヒルダとベル坊が姿を消した。
ヒルダだけならば、ふいに消えることはこれまでもよくあった。
魔界からベル坊のおもちゃや勉強道具を持ち帰ったり、大魔王に経過報告をしたり、男鹿の預かり知らぬところではあるが何らかの用事があって魔界へと戻っていた。

だが今回は、ベル坊と共に消えていた。
離れれば即死レベルで泣くはずなのに、ベル坊がいなくなっても男鹿が死ぬことはなかった。
魔界とは空間の歪みでもあるのか、距離が問題になることはなかったようだ。

そのことが逆に男鹿には不安を与えていた。
ヒルダもベル坊も、人間ではない。
魔界が本来居るべき場所で、いつの日かこんな風に唐突に帰ってしまう可能性は十分にある。
とはいえ男鹿にはそれは現実味のないことで、正直二人が帰ることなど最近では想像することも難しかった。
それなのに二人は何も言わずに姿を消し、そしてそのことが自分の体には何の影響も与えていない。

こんな風に、まるで最初から出会ってもいなかったかのように、別れがやってくるのだと実感させられた。

だからヒルダがベル坊を抱いて戻ってきたときには、顔には出さなかったものの心から安堵したのだ。


「言ったとおりだ」

突き離すような口調で、ヒルダはそう答えた。
ヒルダは自分の腕の中で幸せそうに眠るベル坊を愛しげに見つめたあと、顔を上げるとじっと男鹿を見つめた。
男鹿はそれをまっすぐ見返しはしたものの、出てきた言葉はまた同じものだった。

「どういうことだよ」
「……貴様の頭の中は空っぽか? 二度言わぬと解らんのか」
「解ってるよ、大魔王ってのにまた息子が生まれたんだろ?」
「そうだ」
「だから、それとこれがどういう関係があんのかって聞いてんだ」

思わず掴みかかりそうになるのを必死にこらえ、男鹿は冷静に尋ねようとした。
それでも、声が多少震えているのが自覚できた。

「王位継承者に仕えるにふさわしい、優秀な侍女悪魔が不足しているのだ。そこで私に戻ってこいとの命でな」
「ベル坊は」
「……坊っちゃまは、大魔王様いわく人間界での親がいるからいいだろう、とのことだ」
「何、だよそれ、お前はそれでいいのかよ」
「……大魔王様の命だ。誇りに思え、貴様なら坊っちゃまを任せられると――――」
「ふざけんな!!!!!」

男鹿が思わず叫んでも、ヒルダが怯むことはない。
ただ口を噤み、言葉を探すように少しだけ視線を彷徨わせた。

「勝手なこと言ってんじゃねーよ! てめーはそれでいいのか!? そもそも最初から無理矢理人に押し付けといて、無責任すぎんだろ! こいつのことどーでもいいのかよ!?」

何も考えず思ったままの言葉が乱暴に飛び出して、男鹿はヤケクソ気味に一息で言いきった。
黙って聞いていたヒルダは一瞬泣きそうな顔を見せたが、すぐにいつもの顔に戻った。

こんなことを言いたかったわけではない。
ヒルダがどれだけベル坊を大事にして愛しく思っていたかなんて嫌と言うほど知っている。
主である大魔王自らの命であると、自分自身を納得させているのだ。
解っているのに責めるばかりの言葉しか出てこなかった男鹿は、ダダをこねるだけの子供のような自分に舌打ちをした。

だがヒルダは何も言い返さず、抱いていたベル坊をそっと男鹿に差し出した。

「私は魔界へ戻る。坊っちゃまを頼んだぞ」

男鹿の足元を崩す言葉をヒルダはまた口にして、くるりと背を向けた。

ヒルダの背中が小さくなっていく。
胸に抱いたベル坊は、何も知らないのかスヤスヤと眠っている。
男鹿は呆然としたまま、必死に言葉を探していた。
何か言わなければ、ヒルダはこのまま消えてしまう。
だが声が出なかった。
それほどまでに動揺していた。
言わなくてはいけないことも、言いたいことも解っている。
それなのに声が出ない。
その間にもヒルダはどんどんと遠ざかっていく。



「――――ヒルダっっっっ!!!!!」





男鹿はそう叫んで飛び起きた。
肩で息をしながらまわりを見渡すと、そこは自分の部屋だった。
しんとしていて、だがカーテンから漏れる光から既に朝であると解った。

夢か、と理解して男鹿は頭を抱えて長い息を吐く。
やたらと汗をかいていてTシャツが体に張り付いているが、気にする余裕はなかった。
ちらりと横を見ると、いつものようにベル坊が眠っている。
そのことに安心したが、ベル坊しかいないという事実にまた嫌な汗が出てきた。

男鹿はベル坊を抱きかかえると、文字通りベッドから飛び出しその勢いのまま階下へと向かった。
突然起こされたベル坊は「みゃ!?」と変な声を出したが、さすがにすぐ反応して男鹿の背中にしがみつく。

床を踏み抜かんばかりの足音を立て、男鹿は居間に入った。
そこには休日の朝らしく、両親と姉の姿がある。
加えて、朝食の準備を手伝っているヒルダの姿もちゃんとあった。

「おはようございます、坊っちゃま」

ベル坊の姿を目に留めると、ヒルダはいつもの満面の笑みを見せる。
まさに、いつもの光景だ。

あまりにいつものものすぎて、男鹿は一気に脱力してしゃがみこんだ。
やはり夢だったという安心感と、びびらせやがってという勝手な苛立ちとがごちゃ混ぜになって、ガシガシと頭をかきむしる。

「たつみ?」

意味不明な行動を取る男鹿の前に、ヒルダは首をかしげて近寄った。

「どうした、いつもに増して馬鹿に見えるぞ」
「………」

男鹿は無言で、背中のベル坊を引き剥がしそのままヒルダに押し付けた。
当然素直に受け取ったヒルダは、幸せそうに笑いながらベル坊を胸に抱く。
立ち上がった男鹿は、その二人をまとめて抱きしめた。

同じ空間に居る両親は気を遣って見ないフリをしているが、ソファに座ってテレビを見ていた美咲はニヤニヤとその光景を眺めている。
ヒルダはと言うと、突然の出来事に固まっていた。
抱きしめられたということだけでなく、両親らの目がある場所での行為に動揺したのだ。
慌てて我に返り、引き剥がそうと片腕で男鹿の背中のシャツを掴む。
だが男鹿はヒルダとベル坊をぎゅうと抱きしめるだけで、それ以上のことをしようとはしない。
ヒルダはシャツを握っていた手の力を緩め、そのまま子供をあやすようにポンポンと男鹿の背中を軽く叩いた。

「たつみ」
「………ヒルダのバーカバーカバーカ」
「……喧嘩を売ってるのか、貴様」
「あぁ」
「ほぉ、死にたいらしいな」

そう言って離れようとするヒルダを逃すまいと、男鹿はさらに強く抱きしめた。
間に挟まれたベル坊は苦しかったのか、身をよじらせてヒルダの肩にひっかかるように移動するとふいーっと息を吐いた。
それでも男鹿は力を緩めず、二人を己の腕の中から解放しない。

「いなくなるくらいなら、喧嘩してた方がマシだ」
「いなくなる?」
「……お前らが帰る夢見た」
「帰る……」
「いや、ベル坊は戻って帰ってきたけど、お前はいったん戻って、でも他の仕事だとか何とか言って、そんで」

酔っ払いが愚痴っているかのようにまとまりのない文章を続ける男鹿に、ヒルダは呆れたように笑った。

「魔王の親ともあろうものが、夢ごときに惑わされるな。私はここにいるだろう」
「………」

珍しく優しい口調のヒルダの言葉にも、男鹿は返事をせずにひたすら全身でヒルダたちの存在を確かめるかのように抱きしめ続ける。

「たつみー、あんたイチャつくなら部屋で存分にやりなさいよ」
「うるせー! オレは今ヘコんでんだよ!!」

からかい混じりの姉の言葉に、男鹿は顔も上げずににそう叫んだ。
「おー、こわ」と美咲は肩をすくめて、テレビへと視線を戻す。

あの夢がただの夢で終わらない可能性なんて、決して低くないのだ。
いつか起こりうることで、それは今日かもしれないし明日かもしれないし十年後かもしれないし、もしかしたら死ぬまで起こらないかもしれない。
それがいつかなんて想像ができないし予測もできない。
ただ今この瞬間は確かにこの腕の中にヒルダたちは居て、とにかくそれを実感したくて男鹿はひたすらに二人を抱きしめていた。

「どこにも行くなよ」

独り言のように小さく呟くと、ヒルダは少し黙ってから口を開いた。

「……そもそも、その夢はおかしい」
「何が」
「私が坊っちゃまを置いていくなど、ありえん」

きっぱりと言い切ったヒルダは、男鹿の背中に手を添えて自らも体を寄せる。
美咲たちの視線は感じていたが、気にはならなかった。
男鹿の不安は伝わってきたし、ならば自分も伝えなければならない。

「坊っちゃまのあるところにヒルダあり、だ」
「……いや名言みたく言われても」

自分を慰めるために冗談めかした言い方をしていると解ったので、男鹿も軽く笑ってそう答えた。

「ちなみに、坊っちゃまが貴様から離れることもない」
「まぁな」
「つまり、そういうことだ」
「………」

男鹿は少し体を離して、ヒルダの顔を覗き込む。
顔を上げたヒルダは、ベル坊へ向けるのとは少し違った、柔らかい笑顔を見せた。

「ここが、今の私の居場所だ」

腕の中のヒルダが笑ってそう言ったので、男鹿はまたガバリと二人まとめて抱きしめた。

「苦しい」
「うるせー、我慢しろ」

ベル坊が男鹿の背中へと器用に移動したので、ヒルダも両腕を男鹿の体にまわした。
そのことが嬉しくて、男鹿は不安も何もかも吹き飛ばすことができた。

そもそも二人が魔界に帰るようなことがあれば、連れ戻せばいい。
大魔王とやらが何か言ってきたら、ぶっ飛ばせばいい。

いつもの調子を取り戻した男鹿はよしそれで行こうと一人頷いて、だがそれでもヒルダを離すことなくその体と匂いを堪能し続けた。



息子が人類vs悪魔の全面戦争に突入せんばかりの物騒なことを考えているとは微塵も知らない両親たちは、朝っぱらからの新婚夫婦のイチャつきをほのぼのと横目で見つめていた。


(了)




『確かなもの。』

男鹿→ヒルダ強めで、オタオタ動揺する男鹿を書きたかった。

2011/05/11 UP

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