「たつみー、あんた風呂入っちゃいなさい」
「へーへー。行くぞ、ベル坊」
「ダ!」

夕食後、居間のソファでバラエティ番組を見ながらダラダラしていた男鹿に、母はそう声をかけた。
男鹿も一応は素直に返事をして、隣に座っていたベル坊をひょいと抱えあげいつものように自分の頭の上に乗せると、ペタペタと足を鳴らして風呂場へと向かう。

いつもならば、姉の美咲が先に風呂に入る。
その後ヒルダ、もしくはヒルダとベル坊が一緒に入り、男鹿はというと、一人のときは大抵一番最後だ。
男鹿がベル坊を風呂に入れるときは早く入るが、ほとんどの場合ヒルダが一緒に入っているのでその機会はさほど無い。
今日はその美咲は友人たちと外出で遅くなり、ヒルダもまだ母と一緒に夕食の後片付けで皿を洗っている。
というわけで、「暇そうにしてるんなら自分の息子を風呂に入れなさい」という母の指示が出たわけだが、男鹿としては本当は一人で風呂に行きたかった。
別にベル坊と入るのが嫌なわけではないが、面倒くさいというのが正直なところだ。

「たつみさん」
「あ?」

皿を洗う手を止め、ヒルダは男鹿を呼んだ。
いまだに記憶を取り戻していないヒルダの「たつみさん」呼びにも、男鹿は大分慣れてきた。
ボリボリと背中を掻きながら立ち止まり、目をやるとヒルダは妙にもじもじとしている。

「何だよ」

促すようにこちらから声をかけると、ヒルダは頬を染めて「何でもないです」と小さく返し、くるりとシンクに向き直ると皿洗いの手を再開させた。
首をかしげつつ、だがそれほど気にもせず男鹿はベル坊と共に風呂場へと向かった。
その背中を、ヒルダは皿の泡を洗い流しながらもチラチラと見つめる。

「……ヒルダちゃーん?」
「は、はい」

洗い終えた皿をタオルで拭いていた母は、ヒルダをつんつんと片肘で突つく。
皿を洗う手を止めず、「何でしょうか」と返事をするヒルダに母は楽しげに笑いながら告げた。

「いいわよ、行ってきて」
「え」
「新婚さんですもんねー?」
「……あ、ありがとうございます……」

母の言葉に、ヒルダの顔はこれでもかと言うほど真っ赤になった。




「よっしゃ、待たせたなベル坊」
「ダーブ!」

ベル坊の頭や体を洗い、自分も洗い終えた男鹿はシャワーを止めるとベル坊を持ち上げようと手を伸ばす。
全身洗ってもらってほかほかと機嫌のよいベル坊も、満面の笑みで男鹿に向かって腕を広げた。
浴室のドアが遠慮がちにノックされたのは、それと同時だった。

「ん?」
「たつみさん」
「何だよさっきから。何か用か? ベル坊ならもうちょい待て」
「いえ……」

そうしてゆっくりと、扉は開かれた。

「おい、だからもうちょっと待っ……………」

言葉は途中で終わり、男鹿は目を丸くして口も情けなくあんぐりと開けた状態でドアを見つめた。
ベル坊を拾って以来、まわりは常にあわただしく騒ぎに巻き込まれてばかりだが、今の男鹿が受けた衝撃はきっと過去最大のものだろう。
そのくらい、男鹿の顔はそのインパクトの大きさを物語っていた。

視線の先、浴室の入口には、裸にタオルを巻きつけた姿のヒルダが恥ずかしそうに立っていたのだ。

「……一緒に、入ってもいいですか?」
「…………」

いつの間にか自分の布団に入りこんできていたときは、男鹿は思わず叫んだものだ。
だが今回、驚きすぎてその叫び声すらも出なかった。
返事が無いのをいいことにヒルダは湯気のこもる浴室内に入り、ゆっくりとドアを閉めた。
その音で我に返った男鹿は、「いやいやいやいやちょっと待てヒルダお前!!」と叫びながら周囲を見渡し、体を洗うタオルを慌てて自分の腰に巻きつけて前を隠した。

いつものヒルダの服装も、大きく開いた胸元や短いスカートのおかげで露出が少ないとは言えない。
布の面積的には、今男鹿の目の前にいるヒルダの姿も大して変わらない。

なのにこの破壊力は何だ。

男鹿は混乱する頭の中でそんなことを思った。
胸の谷間だって白い太ももだって普段から見ているのに、裸+タオル+風呂場、極めつけに「恥ずかしそうな顔」なんてオプションまで付けられてしまっては、動揺するなというのが無理な話だ。

「何考えてやがるてめー!」
「……夫婦は一緒にお風呂に入るものだと、昨日お義姉さまが……」
「……あんの女……!!」

ギリギリと歯を噛んでいる間に、いつの間にかヒルダは男鹿のすぐ傍まで来て立っていた。
驚いた男鹿は飛びのいて風呂場の壁に背中を張りつかせ、状況を理解していないベル坊は足元で首をかしげてそんな二人を交互に見ている。

「ダメですか……?」

寂しげにそう言うヒルダの目はうるうると潤んでいる。
いつものヒルダでこの表情はあり得ない。
もし見せるとしてもそれはベル坊に対してのみで、男鹿にこんな顔を見せることは決してない。

今の格好だけでもヤバイのに、そんな表情まで見せられてはたまったもんじゃない。
男鹿は「おれは出るからお前勝手に入れ!」と早口でまくしたて、ヒルダの横をすり抜けるようにしてドアへと突撃する。
だが開けた瞬間、今度目の前にいたのは己の母親だった。

「………」
「……たつみ」
「……な、なんだよ」
「女に恥かかすんじゃないわよ、生意気に」
「………」

冷たい声でそう言われ、ぴしゃりとドアは閉じられた。
この場から逃げることが叶わなくなった男鹿は、目の前のドアを睨みながらごくりと唾を飲む。
おそるおそる振り返ると、ベル坊を抱っこしたヒルダが不安そうに男鹿を見つめていた。

「たつみさん……」
「……………わかった、オレも男だ、腹括ろうじゃねーか」

低い声でそう言って、男鹿はくるりと向きを変えた。
ヒルダはパッと顔を明るくして、嬉しそうに笑っている。

解ってんのかコイツ?

男鹿は小さくため息をついて、浴槽に近づく。
実際には男鹿はもうあとは湯船に浸かるだけで、ヒルダの方はまだこれから体を洗ったり何だりするのだ。
一緒に風呂に入ると言っても、おそらく入れ違いになるだけだろう。
耳はふさげないにしても目を閉じてさえいれば、どうにか乗り越えられるはずだ。
よし、と男鹿は心の中で頷いて、ベル坊を受け取ると湯船に片足を突っ込む。

だがここで、はたと気付いた。
今自分が腰に巻いているものは体を洗うタオルであって、さすがにこれを湯船の中に入れるわけにはいかない。
かといって、ヒルダの目の前でこれを外して諸々さらけ出すのは躊躇われる。
頭を悩ませつつちらりとヒルダに視線をやると、目が合ってにっこり笑われてしまった。

つられて愛想笑いを返した男鹿は、何か無いかと風呂場の中にぐるりと目を走らせる。
そのうち一か所で視線が止まり、素早くそこに手を伸ばした。
それは美咲が使っているもので、お湯の色が白く濁るタイプの入浴剤のボトルだった。
バラの香りがするので、美咲がそれを使ったあとの風呂の順番になると男鹿はシャワーだけで済ます。
体から思い切りバラの香りが漂ってきて、どうにも落ち着かなくなるからだ。
だが今回はそんな文句は言っていられない。
粉の入ったボトルのふたを開けると、豪快に湯船の中にバサバサと落とす。
適量が解らなかったが、底が見えなくなるくらい白く濁った時点でやめた。
お湯の色は目的通り濁ったが、そのかわり匂いも半端無い。
男鹿は顔をしかめつつも、タオルを外すと同時に素早くバラの香り漂う白い湯船にベル坊ごと飛び込んだ。

お湯の中はせいぜい深さ5センチ程度しか視界はなく、あとはもう真っ白だ。
腰をおろしてほっと息を吐いた男鹿は再びちらりとヒルダに目をやったが、ちょうどタオルを外そうとする瞬間だったので慌てて湯船に潜った。
頭の上にいたベル坊は急に沈んだのが面白かったのか、キャッキャッと喜んでいる。

「たつみさん?」
「………」

ゴボゴボゴボと空気を吐きながら、男鹿はゆっくりと湯から顔を上げ、もぞもぞ動いてヒルダに背中を向ける格好になってからようやく頭の上のベル坊をお湯の中に浸からせた。
胸元で抱っこするようにして、肩までちゃんと温まるようにする。

「……オレら、すぐ出るからな」
「はい、急いでとりあえず体だけ洗いますから待っててください」

急ぐんかい!
てか待てってか!!

心の中でそう突っ込んで、男鹿はまたブクブクと鼻まで湯につかり気泡を吐き出す。

背中を向けているからヒルダの姿は男鹿には見えない。
だがベル坊の鼻歌に混じって、ゴシゴシと体を洗う音は聞こえる。

体を洗っているということは、つまり、先程まで巻いていたタオルは、今は巻いていないということだ。
それはつまり、今ヒルダは真っ裸。

そう言う己も湯船の中で真っ裸なわけだが、とりあえずそれは置いておくとして、男鹿はどうするどうするとまた顔の半分まで沈んだ状態で必死に頭を回転させる。
このままでは確実にヒルダは湯船の中に入ってくる。
決して広くないこの浴槽に二人で入れば、どう頑張っても密着せざるを得ない。
古市ほど煩悩にまみれてはいないとは言え、男鹿も普通の男子高校生である。
中身はともかく誰がどう見てもその容姿を美しいと認めるような女と、お互い真っ裸で入浴なんていう状況をどう受け入れろというのか。

グルグル考えながら、元々長風呂体質でもない男鹿は今日はさらに思い切り湯に体を沈めているせいもあって、既に頭がぼんやりし始めていた。
よし、出よう。そう決意して立ち上がろうとした瞬間、視界の端に白い足が見えて再びバシャン!と湯船に沈む。

「お待たせしました」

いや、待ってねーし!!
全然待ってねーし!!!

動揺を隠せないツッコミは口に出されることはなく、無言の男鹿の隣にヒルダは己の体を沈めた。
向かい合う格好ではなく、並んで座る態だ。
だから顔を反対側に向ければ、視界にその姿が入ってくることはない。
男鹿は思い切り顔を背け、ひたすら無言を貫く。

だが、ヒルダが少し動くたびにぱしゃりとお湯が音を立て、柔らかい肌の感触が触れる右肩を通して伝わってくる。

マジ勘弁してくれ……

不良どもから恐れられ喧嘩は負け知らず、たとえ一度勝てなかったとしてもその後必ず相手を倒す。
それが男鹿辰巳という男だが、今回ばかりは自ら負けを宣言してさっさと逃走したかった。
だが逃げ道は無い。
逃げるためにはまずこの浴槽から立ち上がらなければならず、そうするとおそらく色々丸出しになり、そして位置的にヒルダの姿を目に留めてしまうことになるだろう。

「たつみさん、そんなに横向いてたら首痛めちゃいますよ」

純粋に心配するヒルダにそう言われ、男鹿は相変わらず無言のままゆっくりと顔を正面に向ける。
そうすると視界の隅に、ヒルダの白い肌が入り込んでくる。
気のせいだ気のせいだ、と自己暗示をかけながら男鹿はまたぶくぶくと沈んだ。

「たつみさん、顔真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」
「………あちぃ」
「そんな、顔まで浸かってるからじゃないですか」

心配げに男鹿を覗き込むように、ヒルダが体を寄せてくる。
鼻の下あたりまで沈んでいる男鹿の目線は、ほぼ湯面あたりだ。
身をよじって寄ってきたヒルダの胸の谷間は、白い湯から見えている。
つまり、男鹿の目線あたりにちょうどヒルダの胸がある。
そうしてそれが寄ってきたのだ。

「!!!!!!」

男鹿は軽くパニックになって、湯船の中で体を滑らせてしまい頭のてっぺんまでお湯の中に沈んでしまった。
突然支えを失ったベル坊は、慌てて自ら浴槽の縁にしがみつく。

「たつみさん!?」

もう既にのぼせて限界を超えていた男鹿は、そのまま浮かんでくることなく沈んだままで、ぶくぶくと気泡だけが湯面ではじけている。

「きゃーー!? たつみさん! たつみさーん!!」

ヒルダの叫び声を遠くに聞きながら、男鹿はそのまま意識を失った。



目を覚ますと、自分のベッドの上だった。
男鹿は体を起こし、いまだぼんやりとする頭を軽く振ってまわりを見渡す。
ベル坊は隣で眠っていて、その緑色の頭を軽く撫でてから床に足を下ろし、そうしてふと自分の格好に気付いた。

しっかりと、Tシャツとジャージを着ていた。
下着もちゃんと履いている。

「…………」

風呂場でおぼれて、沈んで意識を失ったことは覚えている。
そのあとのことは記憶にない。

だがあのとき、父親と姉はまだ帰宅していなかった。
ではこの服は誰が着せたのか?
どっちの答えでもこの年でいい加減恥ずかしいが、せめて母親であってほしかった。

「あ、たつみさん」

部屋のドアが開き、パジャマ姿のヒルダがミネラルウォーターのペットボトルを片手に入ってきた。
下ろした長い髪はもう乾いていて、歩くとふわりとなびいて薔薇の香りを部屋に漂わせている。

「大丈夫ですか? これ、どうぞ」
「………サンキュ」

喉が渇いていた男鹿は差し出されたペットボトルを素直に受け取ると、口をつけて一気に半分以上飲む。
それから蓋をしてベッドの上に放り、床に尻をついて足元に座っているヒルダを気まずく見下ろした。

「……これ、着せたのお前?」
「はい。嫁ですから」
「……………」

別に女でないのだから、裸を見られたからどうというわけでもない。
ただ、風呂場でのぼせて溺れて意識失って、素っ裸見られて体拭かれて着替えさせてもらって、なんてさすがにみっともない。
男鹿は頭を抱えて項垂れた。

「……あの、たつみさん」
「なに」
「私が原因ですよね、のぼせたのって」
「………」

そうだと答えるのもみっともない気がして、男鹿は返事をためらう。

「ごめんなさい」

ヒルダは本当に申し訳なさそうにそう言って、男鹿の膝に両手を置いた。
男鹿はぎくりと体を固くするが、ヒルダは構わずその体勢でじっと見上げている。
そしてにっこりと微笑んだ。

「明日は、待たせないようもっと早く行きますから!」


明日も一緒に入るんかーーーーーーーい!!!!!!!


男鹿は眩暈を起こし、布団の上に倒れ込んだ。




翌朝、二人揃って同じ薔薇の香りを漂わせての登校のため、古市には散々文句と愚痴を言われまわりからはこれでもかと冷やかされる羽目になるわけだが、現実逃避気味にそのまま眠ってしまった男鹿にそれを予測することは出来なかった。


(了)



『いっしょにはいろう。』

これも記憶喪失ヒルダさん。
とりあえずお風呂ネタは鉄板でしょう。

2012/02/01 UP

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