両親と姉はぐっすり眠って夢の中なのか、男鹿が玄関の扉を開けても起き出してくる気配はなかった。
ベル坊に「静かにしろよ」と囁いて、男鹿はゆっくりと階段を上る。
一歩踏み出すたびにギシリと床がきしみ、普段なら気にならないその音がやけに大きく聞こえて男鹿は思わず舌打ちする。
その音すらも大きくて、男鹿は息を殺して極力足音を立てないよう注意しつつ、自室のドアを開けた。
そっと中を覗き込むと、部屋の中は真っ暗だった。
ゆっくりゆっくり、ものすごくゆっくり、中に足を踏み入れる。
途端に、人の気配の無かった室内から声がした。

「おかえりなさいませ」
「っぎゃーー!!!!」

不良どもからアバレオーガと恐れられる男から発せられたとはとても思えぬ、情けない悲鳴を上げた男鹿は慌てて声の主と距離を取る。

「……たつみさん?」
「い、いたのかよてめー」
「はい」

男鹿としては諦めて姉の部屋に戻っていることを期待したのだが、ヒルダはパジャマ姿で部屋の中央に立っていた。

「………」

気まずい空気が流れ、男鹿はとりあえず無言でヒルダの隣を通り過ぎ、ベル坊をベッドの上に乗せた。
眠かったのか、ベル坊も既に半分夢の中だ。
それからちらりと背後のヒルダをうかがうと、まっすぐ自分を見つめてくる瞳と目が合ってしまいどっと汗が出てくる。

「たつみさん」
「……ハイ」
「今まで、どちらへ?」
「……古市んとこ行こーかと思ったけど、それもめんどくせーからそのへんグルグル走ってた」
「ふる……いち?」

男鹿はそっけなく答えて、パジャマ代わりのTシャツとジャージを拾い上げると再びドアへと向かう。
ヒルダは何か言いたげにしていたが、男鹿がぴたりと足を止めると口を噤んだ。

「ヒルダ」
「っはい」
「オレは風呂に入る。お前はこれまでどおり姉貴の部屋で寝ろ。いいな!」

返事は聞かず、男鹿はやはり逃げるように部屋を飛び出し風呂場へと向かった。



それから十数分後、シャワーを浴び終えた男鹿が部屋に戻ると、ヒルダはまだそこにいた。
ベッドに腰をおろし、すやすやと眠っているベル坊の頭を撫でている。
思わず手と膝を床についた男鹿は、力無い声で「何でまだいるんだよ…」と項垂れる。

ヒルダは立ち上がり、先程と同じように男鹿の正面にしゃがみこんだ。

「たつみさん」
「な、なんだよ」
「たつみさんは、私と一緒に寝るのが嫌なんですか?」
「………」
「夫婦というのは、一緒に眠るものなんでしょう……?」

ヒルダの顔は必死だ。
男鹿はどう答えるべきか、日頃使わない頭を必死にフル稼働させた。

そもそもヒルダとは夫婦ではないのだ。
その時点ですでに認識のズレがあるのだから、どう答えたってどんどんズレていくだけだ。
だがヒルダは、自分たちが夫婦だと思い込んでいる。
ベル坊を自分の子供と思い、夫の家族と同居している。
そう信じて、そしてその状況に幸せそうに笑っていたのだ。

そこへきて「本当は夫婦じゃないんですよー」なんて言ったらどうなるのか。
記憶を失って自分が誰なのかここがどこなのか、何も分からなくなった状態でまた振り出しに戻されては、ヒルダはどれだけ不安になるだろうか。
少なくとも落ち着くまでしばらくは、夫婦だということを完全否定しない方がいい。
男鹿はぼんやりとではあるが、そう思っていた。

で、夫婦だということにするなら、一緒に寝るべきなのか?
いやだが実際には夫婦ではないのだ。
でもヒルダにとっては夫婦なのだから―――???

男鹿がグルグルと同じことを脳内でループさせている間、目の前のヒルダは赤い顔で何やら考え込んでいた。

「たつみさん、私たちは……」
「あ?」
「いわゆる……」

ヒルダは恥ずかしそうに頬を染めて言い淀み、男鹿から視線を外すと小さくつぶやいた。

「セックスレス……というものなんでしょうか……」
「…………あぁ!?」

突然の発言に、深夜にも関わらず男鹿の声は思わず大きくなってしまった。
ヒルダは顔を真っ赤にして俯き、「だって……」とごにょごにょ言い訳をしている。

「記憶喪失のくせに何でそんな単語知ってんだよ……」
「昼間のドラマで……」
「お前、あのドラマでよくそこまで勉強したな!? ある意味すげーよ」
「それより! どうなんですかたつみさん!」

開き直ったらしいヒルダは、相変わらず顔は赤いが詰め寄るように男鹿に体を近づける。
男鹿は尻もちをついたような格好で、そのまま後ろに逃げようとするが構わずヒルダは近寄ってくる。
唐突に何かが吹っ切れたようなヒルダの迫力は、記憶を失う前のそれに通ずるものがある。
やっぱりヒルダはヒルダなんだなと呑気に思ったりもしたが、とりあえずこのままではヤバイことになる、と男鹿は動揺しつつ必死に後ずさりする。
だがそのうちドアにぶつかり後ろの逃げ道は無くなり、ヒルダはズンズンと近寄ってきて、押し倒さんばかりの距離でじっと男鹿を見つめる。

「お、おちつけヒルダ!! あんまり騒ぐとベル坊が起きる!」

この時点で声量からすると騒いでいるのは男鹿の方だが、ヒルダはベッド上のベル坊を振り返ると、素直に男鹿から体を離しペタンと尻をついて床に座った。
距離が出来たことで男鹿は密かに安堵し、あぐらをかいて「お前なぁ」と呆れた声で言った。

「何がしたいんだよ……」

その発言に、ヒルダは再びまっすぐに男鹿を見つめる。

「たつみさんと、ベルちゃんと、家族三人で一緒に寝たいんです」

そう言うヒルダの瞳が潤んでいるのが、窓から入る街灯の明かりで解った。
見ているうちにどんどんと涙がたまって、とうとう溢れてポタリと床に落ちた。
まさか泣きだすとは思っていなかった男鹿はさすがに慌てて、「あー」とか「おい」とか役に立たない声ばかりをヒルダにかける。

「夫婦なんでしょう」

ごしごしと目元をこするヒルダが随分と小さく見えて、男鹿はハッと気付くといつの間にか腕を伸ばしていた。
慌てて引っ込めて、そのかわり「泣くな!」とヒルダの頭をガシガシ撫でた。
ベル坊を相手にしたようななだめ方だったが、結果的にヒルダは泣きやんだ。

「たつみさん」

長い睫毛が涙に濡れて光っている。
男鹿はそれをじっと見つめて、それからガバリと立ち上がる。

「……川の字、な」

いくらこの場で「姉貴の部屋に行け」と説得してもヒルダは聞かないだろう。
むしろさらに泣きだしてしまいそうだ。
別の布団を持ってきて二手に別れるという手もあるが、それはかなり面倒くさい。
しかも先程の逃走の後に頭をすっきりさせるために町内を走りまわったので、疲れていたし夜も遅い。
川の字なら雑魚寝と大して変わらない、と男鹿は自分の中でそう結論づけた。

「はい!」

途端にヒルダが笑顔に変わる。
ベル坊を抱きしめたときのような幸せそうな笑顔で、男鹿も肩をすくめて笑い、ベッドへと向かった。
ベッドに上がりすやすや眠るベル坊を超えて壁側の方に寝転ぶと、ヒルダも同じくベッドの傍に近づく。
だがその場に立ったままで布団に入ろうとしない。

「あの、たつみさん」
「まだ何かあんのか」

男鹿は両肘をついて少しだけ上体を起こし、欠伸混じりに返事をする。
言いにくそうにしていたヒルダは男鹿の機嫌を伺うようにおずおずと口を開いた。

「先程の……ふるいちと言う方は……女性ですか?」
「あぁ? ンな訳ねーだろ。男だ男」
「そう、ですか」

ヒルダは「よかった」と呟いて、布団をそっとめくる。
それからベル坊を起こさないよう気を付けながら、ゆっくりその身を滑り込ませた。
男鹿も再びごろんと転がり、黒い天井を見上げながら続ける。

「……古市ってのはあだ名で、本名はキモ市だ」
「はぁ」

ちょっとした悪戯心で、もぞもぞと落ち着く場所を探しているヒルダに悪い顔でそう告げる。

「そんで、ロリコンだ」
「ろり……?」
「ロリコンってのは……うーん、アレだ、ガキをエロイ目で見る男のことだ」
「なるほど、ロリコンのキモ市さん……」
「そーそー」

クックッと笑う男鹿を、ヒルダは優しく見つめる。
その視線を感じ、ベル坊を挟んでいるとはいえ同じベッドですぐ近くにヒルダの顔があることに気付いて、今更ながら男鹿は動揺する。
だがもう自ら「川の字」を許してしまったのだから、撤回はできない。
男鹿はなるようになれ、と諦めて目を閉じた。

「……おやすみなさい、たつみさん」
「……おやすみ」

なんだこれ、むずがゆい。

男鹿はそう思ったが、目は開けなかった。
寝る気ないだろ、というくらい思い切りぎゅうと瞼を閉じて、そのまま時間が過ぎるのを待つ。
やがてヒルダの寝息が聞こえてきて、それにまたざわざわと動揺する。
さすがの男鹿でも、女と同じベッドに入っていつもどおりでいろ、というのは無理な話だ。

普段はベル坊と二人で眠っている。
赤ん坊の体温のおかげで暖かく、男鹿はその点は気に入っている。
ただ今日は布団の中に大人一人増えたわけだが、たったそれだけでまたさらに暖かい。
気のせいかもしれないが、そんな気がした。

こっそり目を開けて、男鹿は隣のヒルダを盗み見る。
ヒルダはすーすーと可愛らしい寝息を立てて、男鹿の方を向いて眠っていた。
予想以上に近い距離に顔があって、男鹿は慌てて布団ごと寝がえりをうってヒルダに背を向けた。

「………ん」

あまり心地良さそうではない声に思わず振り返ると、男鹿が引っ張ったせいで掛け布団がヒルダの上からすっかり外れてしまっていた。

「ヤベ」

男鹿はごそごそ動いて、掛け布団をそっとヒルダにかけてやる。
ダブルベッドでもそれ用の布団でもないので、二人が寝るには若干狭い。
ヒルダにすっぽり布団を掛けてやると、仰向けになった男鹿の体は半分程度しか隠れない。

「………さみっ」

そう呟きながらもしばらく考えて、やがて意を決したように男鹿はごろんと体の向きを変えた。
結果、ベル坊を挟んでヒルダと向かい合う格好になる。
それでも背中には布団がかからず、窓からの冷気でひんやりとしている。
解決するにはただひとつ、もっと近寄ることだ。
ベル坊ごと、ヒルダを抱きしめるくらいに近寄れば、今の布団でも十分三人とも暖まれる。
だがさすがに出来なかった。
記憶を失って妻だと思い込んでるだけの女に変なことをするのはよろしくないと、いくら男鹿でも判断出来た。

どんどん冷えていく背中を「我慢」の二文字で解決することにして、男鹿はすぐそこにあるヒルダの顔を見つめる。

「……呑気に寝やがって……」

何安心しきってんだ、と文句を言いつつ男鹿は目を閉じる。

自分ばかりが動揺させられていることへの腹いせに、ほんの少しばかりヒルダに近づいて、だが抱きしめることはせずに男鹿はそのまま眠りに落ちた。



夜中に寒さのあまり、結局朝までベル坊ごとヒルダを抱いて眠っていたことは、男鹿は気付いていない。


(了)




『深夜のひみつ。』

バブ139と140の間を妄想。
原作に出てこないなら……妄想するでしょう…?

2012/01/28 UP

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