賭。
『もう逃げないから・・・だから早く・・・』
ハッと息を呑んで、ナミは飛び起きた。
嫌な夢。
いや、夢ではない。
昔の記憶。
ナミは過去に、駆け落ちした遊女を1人知っていた。
店の男と逃げたのだ。
店は駆け落ちは許さない。
大人数を使ってでも必ず探し出し、連れ戻す。
相手は働き出して5年目の若者であったが、しっかりと働く真面目な男であった。
アーロンは連れ戻した男を、あっさりと殺した。
駆け落ちの男は殺される場合がほとんどなのだ。
そして遊女の方はというと、死ぬより辛い拷問を受ける羽目になる。
それは店の他の遊女への見せしめにもなる。
そのときの、まだここに来たばかりだった幼いナミには理解できなかった。
どうして逃げるのか?
ここではみんな優しいし、客として来る男も店の中では丸腰だから安全だ。
それに相手の男も同じ場所で働いているのだから、逃げなくてもいいじゃないか、と。
本来遊女の顔は商売道具のはずなのだが、
引きずられるように戻ってきたその遊女の顔は、殴りつけられ腫れあがっていた。
男の方は姿を見ることはなかった。
おそらくはもう『処分』されていたのだろう。
ナミは彼女が男2人に引きずられながら、どこかの部屋に入っていくのを無言で見送った。
それからその遊女は凄惨な拷問を受けたのち、離れに放置された。
遊女は全てが自腹である。
当然、治療費も。
彼女は格としては下級の遊女であり、傷を治療する金など持っていなかった。
そのまま治療も食事も与えられぬまま離れに一人残されたその遊女は、
数日後に死んだ。
特別親しかったわけではないが、彼女は幼いナミに冷たくすることはなかったし、
顔を合わせれば優しく笑いかけてくれた。
そんな彼女の様子が気になって、
彼女が離れに連れて行かれた翌日に、ナミはこっそりとそこに足を運んでいた。
冷たい牢屋のような部屋に、彼女は横たわっていた。
体中が痣だらけになり、固まりつつある血がこびりついている。
小さな声で単語にならない言葉を時折発していることが、唯一彼女がまだ生きていることを表していた。
ナミはその姿を見て足がすくみ、それ以上近づくことができなかった。
彼女はその気配を察したのか、ゆっくりと顔を起こしてナミを見た。
以前の彼女の面影はどこにもなく、赤黒く脹れた顔と澱んだ目で、
彼女はナミを見つめた。
『もう逃げないから・・・だから早く・・・・・殺して』
掠れたその声を聞いた瞬間、ナミは小さく悲鳴を上げ、
その場から走り去った。
数日後に彼女が死んだと聞いたとき、ナミが感じたのは悲しみではなく、
恐怖と困惑であった。
彼女があんな目に遭う意味も理由も分からなかった。
そうしてナミは、その記憶を本能で封印していった。
今さら夢で思い出すなんて。
あの遊女は、あの男は、一体どんな気持ちで『共に逃げよう』と言ったのだろう。
相手の命を奪ってしまうかもしれないのに、どうしてそんなことを言ったのだろう。
見つかればそうなることを、彼女も相手の男も分かっていたはずだ。
そしておそらくは、すぐに見つかってしまうことも。
それでも少ない可能性に賭け、2人で逃げ出したのだ。
2人で共に在ることを願って。
命を賭けてまで、男を愛するなんて。
女のために、命を賭けるなんて。
少し前までのナミなら、その感情を理解することなどできなかった。
自分のために愛する人の命が奪われてしまうなど、もう耐えられない。
だが、今では。
命を賭けて愛することなら分かる。
ずっと分からないままでよかったのに。
一度知ってしまったことは、もう忘れられないというのに。
母の命を奪ったうえに、
愛する男の命さえも、自分は奪ってしまうかもしれない。
自分を愛してくれた2人の人間。
母はもう戻らない。
それでも、
もう一人の命は、失わずにすむ。
私が、忘れさえすれば。
ただ
あの夜だけは
初めて過ごしたあの夜のことだけは
忘れたくはないけれど。
どうか彼が
早く私を忘れてくれますように。
ナミはぎゅっと目を閉じて、ただ願った。
2006/02/01 UP
ナミさん。
何か同じような内容ばっかやなぁ・・・。
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