跡。







ナミは眠っていた。
キッチンのテーブルに本を広げて持ったまま、そこに突っ伏す形で目を閉じている。
読んでいる途中で眠ってしまったらしく、中途半端に開かれたページはシワになっていた。

ゾロはただ水を飲みに来ただけなのだが、ナミのその寝姿を見つけてしまって本来の目的はすっかり忘れてしまった。

果たして、起こすべきだろうか。
起こしたとして、ナミのことだから「女の寝顔をタダで見て逃げるのか」などと言いかねない。
だがこのまま見過ごしたとして、今のように本の上に頬を乗せたままでいたら起きればきっとそこには見事なラインが入ってしまうことだろう。
それも見るのもまた一興だが、どうして起こさなかったのかと怒鳴られるのも気に食わない。
そろそろナミの性格も分かってきていたゾロは、少し考えたあとで起こすことに決めた。
とりあえずせめて声だけでもかけておけば、後々言い返すこともできるだろう。

「おい、起き……」

そう声をかけた瞬間、ぽろりとナミの目から涙が零れた。
ゾロは肩を揺すろうと伸ばした手を思わず止める。

嗚咽を漏らすでもなく、顔を歪ませることもなく、ただ零れたというように、一粒の涙が目元から溢れ、ぽたりと本の上に染みを作る。
何か泣くような夢でも見ているのかと思ったが、ナミの表情にはそんなものは一切無かった。
無表情だが、すやすやと眠っているように見えなくもない。

どうしたものかと、ゾロはナミを見つめていた。
うなされでもしていたらすぐに起こすのだが、ナミは相変わらず無表情なのだ。
しばらく隣に立ったまま迷っていると、再び小さな涙の粒が零れそうになった。
落ちてしまうその前に、無意識に出した指でそれを拭った。
ひやりとしたその感覚とは対照的に、微かに触れたナミの肌は温かかった。

ゾロはこんな風にナミの顔をまじまじと見たことはなかった。
確かに、レストランのコックが騒ぐほどには綺麗な顔をしているし、騙される男たちがいるのも納得できる。
ぼんやりとそう思いながら、ゾロはもう一度手を伸ばして目元の涙の痕を拭ってやった。
そのまま手を滑らせて、小さな子供をあやすように頭を撫でる。

「ナミ」

声をかけても、ナミは起きない。
このまま寝かせておこうか、とゾロは思った。
ルフィはまだあのレストランにいるし、ヨサクとジョニーは甲板で休んでいる。
ウソップは船の大砲のチェックをしているから、キッチンには当分近づかないだろう。
ナミも泣いているところを見られるのは気に食わないだろうし、ここは気付かなかったことにするのが一番だ。
ゾロはそう決めて、水も諦めてキッチンを出ることにした。

ドアの手前で振り返り、もう一度ナミの顔を見る。
もう泣いてはいない。

何故、泣いた?

どうして自分がこんなにも気にしているのか、ゾロには分からなかった。






レストランで夕食を摂り、雑用中のルフィを除いて他のメンバーは船に戻った。
病み上がりのヨサクたちは部屋で既に寝ていて、ウソップも中に引っ込んでいる。

甲板には、サンジからプレゼントされたワインのボトルとグラスを片手に海を眺めているナミの姿があった。

「おれにも寄越せよ」
「…ゾロ」

ナミが振り返ると、眠そうな顔をしたゾロが立っていた。
ボリボリと頭をかきながら、ナミの隣に立って手すりに背もたれる。

「やーよ。これは私がもらったんだから」
「ケチだな」
「ケチで結構」

だがワインの栓は開いてはいても中身は減っておらず、グラスもまだ綺麗なままだった。
ナミはただぼんやりと、暗くなっていく海の景色を眺めている。

「…なんで、泣いた」
「……何のこと?」
「昼間、キッチンで泣いてたろ。寝ながら」
「………知らない」

ナミは肩をすくめて、ゾロと目も合わさずに興味無さげに答えた。
隣のゾロがじっと自分を見ていることには気付いていたが、そちらを向こうとはしなかった。


「なんで泣いてたんだよ」
「…何よ、あんたに関係ないでしょ」
「気になる」

他人に興味を持つような男には見えなかったので、ナミは思わずゾロを見た。
まっすぐにこちらを見返す目と視線が絡んで、一瞬ぎくりと身を竦ませる。
全てを見透かされるようで、怖かった。
だが実際にはゾロはナミのことを何も知らないし、どうしてこんなにも涙の理由が気になるのかすらもまだ分かっていなかった。

「夢でも見たか」
「別に」
「じゃあ何だよ」
「だから関係ないでしょ」
「だから気になるっつってんだろ」

しつこく食い下がるゾロをナミは睨みつけて、それからフフンと笑った。

「なーんだ、あんた私に惚れちゃってるのね」
「いや」

ゾロは即答したが、ナミが瞬間固まったので首をかしげる。
自分で冗談めかした尋ね方をしておいて、何故傷ついたような顔をするのかと不思議に思った。
それからナミは再びゾロから目を逸らし、暗い海を見下ろした。

「言ったでしょ、仲間にはならないって。見た夢の内容まで報告するような仲良し集団に入った覚えは無いわ」
「でも泣かれたら気になんだろ」
「ふん、意外と優しい男なのね、海賊狩りさん」

ナミは海を見つめたまま軽く笑って、手にしているグラスをクルクルと回す。
ゾロもそれをぼんやり見ながら、何も考えずただ思ったことを口にした。

「他のヤツだったら別に気になんねぇよ。ただお前が――」
「……私が、何よ」

ぴたりと手を止め、ナミはゾロを見た。

「お前が泣くと、気になる」

表情ひとつ変えずに、ゾロはそう言った。
ゾロからすれば深い意味も何も無く、ただ本当に気になるから素直にそう言っただけだった。
ナミはそんなゾロの答えを聞いて、一瞬だけ顔を歪ませる。
まばたきでもすれば見逃してしまうくらいの僅かな瞬間だったが、ゾロはそれに気付いた。

訳が分からなかった。
どうして、ナミが泣きそうな顔をするのか。
自分自身のことも分からなかった。
どうして、この女が泣くのがこれほどに気になるのか。

すぐにいつもの表情に戻ったナミは、またふいと顔を逸らして海へと視線を向ける。

「…出発した場所に、戻るだけの夢よ」
「…家に帰るってことか?」
「……そう、ね」
「家に帰るのに、泣くのかお前」
「……あんたには関係無いし、これ以上話すつもりもない」

出逢って以来初めて聞くような冷たい口調でナミは答えると、それ以上は口を開かなかった。

「戻りたくねぇのか」

もう会話するつもりのなかったナミは、空気の読まない男を睨みつけると再び「関係ない」と素っ気無く言い捨てる。

「なぁ」

ゾロはナミの顔を覗き込むように少し背を逸らした。
冷たく見返されたが、そのままじっと見つめる。
一分近く無言で見つめ合っていたが、ナミが小さく息を吐いたことで沈黙は破られた。

「ねぇゾロ、もし私が」
「あ?」

ナミはボトルとグラスをぎゅうと強く握り、また息を大きく吐く。

「もし私が、一人で戻るのが嫌だから一緒に来てって言ったら、どうする?」
「行く」

少しの間も無くゾロが答えたので、ナミはほんの少し肩を震わせ、きゅっと唇を噛んだ。
何も知らないこの男が腹立たしくて、だがそれなのに溢れそうになる涙を、ナミは抑えるのに必死だった。

「そうしねぇとお前、独りで泣くだろ」

ゾロは手を伸ばして、親指の腹でナミの目元を拭う。
ほんのわずかだけ、指先が濡れた。

この手を取れたら、どれだけ幸せだろうとナミは密かに思った。
だが自分がそうできないことは知っていたし、そうしてはいけないことも分かっていた。
大事なら、愛しいなら、余計にこの手に触れてはいけないのだ。

「ゾロ」
「ん」

潤んだ瞳のまま、ナミはにっこりと笑った。
ナミの頬のあたりに指で触れたままだったゾロは、その表情を見て無性に抱き締めたくなった。
泣きそうな顔のままで、どうしてこの女は無理に笑うのか。
同時にゾロは、何故ナミのことがこんなに気になるのかを理解した。

ピクリと動いたゾロの腕を、ナミはワインボトルを持った手でゆっくりと払いのける。

「あんたには関係ないから、もう気にしないで」

涙は流さずにそう言って、ナミは少し考えてからワインボトルに唇を触れさせ一口飲むと、残りのボトルごとゾロの胸に押しつけた。

「あげる」
「ナミ」
「おやすみ」

ナミがさっさと手を離してしまったので、ゾロは慌てて押し付けられたボトルを取った。
部屋へと戻ろうとするナミの背中に、ゾロはもう一度「ナミ」と声をかける。

「独りで泣くな」
「………」
「呼べよ」
「……おやすみ」

振り返ることなく、ナミは中へ入っていった。

一人残されたゾロはしばらくナミの消えたドアを見つめていたが、やがて渡されたワインボトルに口を付け中身を一気に飲み干した。







翌日、ナミは船と共に姿を消した。

後を追う船の中で、ゾロはナミを想った。
今独りで泣いているであろう女を引き止められなかった自分が情けない。
己に言い聞かせるように何度も「関係ない」と口にした女を、独りで行かせてしまったことが情けない。

独りで泣くなと、呼べと言ったのに。
ゾロはぎりと奥歯を噛む。


関係ないはずがない。
当然だろう。
惚れた女を、泣かせたくないと思うのは。


指先には涙の冷たさが、喉にはワインの甘さがまだ残っていた。






こむぎ様の2009ゾロ誕への投稿作品です。
テーマは「涙」…だったと思う確か(笑)。
なんせ1年以上前の投稿で…自宅UPを忘れていたので…ぼそぼそ。

あたかも今年のゾロ誕であるかのようにUP…の予定だったんですが、既に12月中旬でどこがゾロ誕だ、と。
あれ、知らないの、365日ゾロ誕なんだぜこれ常識。

そんなわけで、ナミ誕のような文章のゾロ誕投稿SSでしたっっ。

2010/12/18 UP

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