水。








その手洗い場は、美術室の前にあった。



汗だくになる練習後は、頭から水をかぶりガブ飲みする。
だが道場の近くの手洗い場は上級生が使うことになっており、
新人の1年は遠く離れたグランウドまで行くのが通常だった。

入部してすぐの頃、その手洗い場まで行くのに迷ってしまった。
野球部や陸上部の声がするほうに歩けばいいと思っていたが、気付けば何故か中庭に立っていた。

胴着のままでうーむと唸り、やはり声を頼りにグラウンドを目指そうとしたが
すぐ先に手洗い場があることに気付いた。


この高校は共学だが、クラスは男女別々になっている。
それぞれ男子棟・女子棟があり、別に立ち入り禁止になっているわけではないが男女が顔を合わせることはあまり無い。
別棟には保健室や職員室のほかに、理科室や技術室があり、男子棟女子棟は共に別棟と渡り廊下で繋がっている。

美術室は、その別棟の1階にあった。

男子棟からの渡り廊下は美術室からすぐのところで繋がっており、
手洗い場はその渡り廊下の途中、別棟寄りにあった。

男子棟から見えていたはずなのだが、普段は気に留めていなかった。
グラウンドや道場からは別棟を挟んでの反対側だったし、
美術を選択していないので別棟のこのあたりに来ることもなかった。

剣道部を始め、運動部の連中はわざわざこんなところまではやってこないだろう。
部活の時間真っ最中にも関わらず、その手洗い場はしんとして誰の気配もなかった。



 「穴場だな」



独りそう呟いて、額の汗を拭いながらそこまで駆ける。

蛇口を一気に捻り、流れる水に口をつけた。
喉を鳴らして飲み込んで、大きな息を吐いて顔をあげる。
口元の水を腕でぬぐって、何となく周りを見渡す。

美術室の窓は開いていて、誰かがいる気配はするがこの位置から中は見えない。
部員が絵でも描いてるんだろうと思いつつ、だがあえて中を覗くつもりもなかったので、
もう一度水を飲んでさらに頭から水をかぶり、ぶんぶんと首を振ってそのまま道場に戻った。


それ以来、部活のあとは決まってその手洗い場を使うようになった。







夏になり、練習後の水分補給は冗談ではなく命に関わるものとなる。
蒸し風呂状態の道場から出ても外は熱帯並の暑さで、
タオルで拭いても拭いても出てくる汗にうんざりしながら例の手洗い場まで急いだ。

元々夏は苦手ではない。
エアコンはどうも性に合わないので真夏でも扇風機で過ごすし、汗をかくのも嫌いじゃない。
だが脱水だけは御免だ。
相変わらず道場の前の手洗い場は先輩優先だし、グラウンドは遠い。
人気の無いこの手洗い場は木の陰にもなって、夏はさらに静かで快適な場所になっていた。


だがその日、いつものように浴びるほど水を飲んで顔を上げると、美術室の窓から覗く影があった。




 「…………」

 「こんにちは」

 「……ども」




窓枠に腕をついて、微笑みながら手洗い場を覗いている女子生徒。

見覚えの無い顔なので2年か3年だろう。
この時間に美術室にいるのなら美術部員だろうが、この手洗い場を使うようになってから顔を合わせたことはない。



 「剣道部?」

 「…剣道部、ですが」



相変わらず人懐こく笑う女はこちらをじろじろと見つめてくる。

その顔に見覚えはないが、だが聞き覚えはあった。
クラスの連中や部のヤツらが話しているのを聞いたことがある。


『美術部に、オレンジ頭のすげぇ美人がいる』


噂は聞いていても、実際に顔を見るのは初めてだった。
今窓からこちらを覗く女の髪は、思わず見惚れるほどのオレンジ色だった。
それに、確かに…噂どおりの美人だ。
中学の頃にも男子の間で可愛いと評判の女子というのはいたが、それとは比べ物にならない。
廊下で顔を合わせればきっと誰もが振り向くだろう。


ぼんやり考えながら、寄越される視線を受けていた。




 「ねぇ、あなたいつもここ使ってるよね」

 「はぁ」

 「道場から遠いでしょ?」

 「………まぁそうですけど、静かなんで」



タオルで顔を拭いながら答えると、女はふーんと軽い返事をしながら中に引っ込んだ。

何なんだ、と思いながら着替えのために道場に戻るべく向きを変えると、「おーい!」という声に思わず足を止める。
振り返ろうとすると、美術部の方から何かが飛んでくるのが目の端に映った。

驚いたが、反射でそれを受け取る。
手にヒヤリと濡れた感触があって見下ろすと、それはまわりに水滴をつけたスポーツドリンクの缶だった。



 「あげるよ」

 「……ありがとうございます」

 「練習頑張ってね」

 「…はぁ」



女はそう言って手を振り、また中に引っ込んで今度は出てこなかった。

カシっと音を立てて缶を開け、一口飲む。
水とは違い甘い味のあるそれを、一気に飲み干した。


変な女、と呟いてまた向きを変え歩き出す。



オレンジの髪と、白い肌が頭から離れなかった。










翌日も翌々日も、以来手洗い場に行くとその女が顔を覗かせてきた。

いつもは水を飲んだらさっさと道場に戻っていたのだが、
この女と会って以来、徐々にここにいる時間が長くなっていた。

別に大した会話をしているわけではない。
互いの部活の話や、共通に知っている教師の話。
購買のメニューについてや授業の内容。
女は暇なのか一人でペラペラと喋っていることもあったし、こちらも何か聞かれればそれに答える。


最初は手洗い場と窓。
それからいつのまにか近づいて、気付けば女のいる窓の横に背を預けて、すぐ傍で話すようになった。

来る時間を見越して、女が差し入れのジュースを用意してくれていることもあった。
逆にこちらが途中で2本買って、それを握り締めて手洗い場に行くこともある。
何故だか互いがカブることはなく、いつも2人で1本ずつジュースを飲みながら話すことになった。

最初のうちはやはり暑さから、一気飲みしてしまっていた。
だが最近はチビチビ飲むようになっている。

理由は明確だ。


少しでも、その場に居たかったから。
そこに居る理由が欲しかったから。


そして女がジュースを飲み干す時間が同じように長くなっているのが、たとえ気のせいでも少し嬉しかった。



一度、女の絵を見たことがあった。
窓から美術室を覗くと、並べられた机のほかに壁の周りには油絵のキャンバスや石膏など、
初めて見るようなものがやたらと並べてあった。

珍しげにきょろきょろと首を動かしていると、女が50cm四方程だかの板を持ってきた。
それを胸の前に抱き、こちらに絵を見せてくれた。


正直絵のことなど分からない。
見せられた淡い色使いのその絵も、何が描かれているのかもさっぱり理解はできなかった。

だが、何故だかとてもその女らしい絵だと思えた。

緑と、橙と、他にも色んな色が重なりあった絵に、素直にそう述べると、
女は嬉しそうに笑った。









 「ねぇ、今度あんたの絵を描かせてよ」



夏休み前の最後の部活のあと、いつものように美術室の隣の手洗い場で頭から水をかぶっていると、
窓枠に腕をついて頬を乗せ、上目遣いでこちらを見ていた女がそう言った。


犬がそうするようにブンブンと頭を振って水気を飛ばし、
新しいタオルを首にひっかけてその傍まで近寄ると、女は片手に持っていたジュースの缶を寄越してきた。
礼を言ってそれを受け取って開け、一口飲みながら横目で女を見る。



 「人物画なんて描くんだ? こないだみたいなのばっかかと」

 「描くわよ。 ていうか描きたいの」

 「…ふーん、まぁおれは別にいいっすけど」



女の額に汗の玉が浮かんでいたので、肩にかけていたタオルの端を引っぱってそれを拭ってやる。
女は片目をつぶってそれを受け入れたので、少し乱暴に拭いてやると抗議の声を上げた。



 「もう!」

 「あぁ、一応新しいタオルなんで大丈夫」

 「そうじゃなくて」



女はクスクスと笑い出し、持っていたジュースをコクリと飲む。



 「やっぱり、部活のときのかな」

 「は? あぁ、絵の話」

 「でも面を付けてたら顔見えないわねー」




女は独り言のように呟きながら、眉間に皺を寄せ顎に手を当ててうーんと唸った。


女の表情はクルクルと変わる。

いかにも『美人』らしく微笑んだり、
子供のように大きな口を開けて笑ったり、
少女のように頬を染めてみたり、
今のように険しい顔をしてみたり。

それが全部自分に向けられていたことに、ほんの少しだけ優越感を感じていた。


自分たちはこの手洗い場で、しかも窓越しでしか会っていないのに。




 「防具付きは諦めよっかな」

 「お好きなように」

 「やっぱりあんたの顔、描きたいもんね」




女はこちらを見上げて、微笑んだ。




 「あんたの顔、とてもキレイだから」




思わず口に含んだジュースを噴出しそうになり、慌ててゴクリと飲み干した。
女は気にせず相変わらずニコニコと微笑んだままこちらを見つめてくる。



 「…男にキレイって、褒め言葉じゃないっすよ」

 「だって本当のことだもーん」



楽しげに笑いながら女はジュースを飲む。
首を反らして露になった白い喉が、コクコクと上下に動いている。


思わずそれに見惚れていたことに気付いて、慌てて視線を逸らして同じように缶をあおった。




あんたの方がよっぽどキレイだ。




そんな言葉を、甘い液体と一緒に飲み込んだ。




2007/08/03 UP

『ゾロが先輩ナミに憧れている』
告白させてもOK、とのことでしたが、進みませんでしたこの2人(笑)。

わぁい尻切れ……。
同じ部活バージョンは既出なので、違う部活にしてみました。

ねここさん、これで許してー!!

生誕'07/NOVEL/海賊TOP

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